17世紀から現在に至るまでの防護服の進化(写真特集)

Unknown author/MAMM/MDF, Valery Melnikov/Sputnik
 人類はかなり前から、病人や化学汚染物質と接触する場合に、感染から身を守る必要があることを認識していた。しかし、この問題において大きな成功を収めることができたのは20世紀になってからであった。

 周囲の害作用から身を守る防護服というのは、新しい発見ではない。最初の疫病であるペストの時代から、感染者とは出来るだけ距離を保つべきであり、医師など職業柄、それが不可能な場合は、身体接触を出来るだけ最小限に留めるべきであるということは明白であった。実験によって、歴史の教科書で見た「ペスト医師」の衣装(長い革のコート、手袋、長いクチバシのついたマスク)は17世紀に登場したものであることが分かった。この防護服は継続的に改良され、進化し、危険な条件下での作業のための特殊衣料の原型となっている。

 

ペスト防護服

ペストで亡くなった人を霊安室へ搬送

 20世紀初頭、ロシアを含む多くの国で、結核、チフス、天然痘、ペストの爆発感染など、死をもたらすいくつもの疫病が蔓延した。この頃には、多くのウイルスは空気・飛沫感染、あるいは粘膜感染により広まることから、感染地域で作業をする人は特殊衣料を身につけるべきだということが分かっていた。

 満州(19101911)でのペストの大流行のときには、ヨーロッパでの感染拡大を予防するため、ロシア帝国は東清鉄道で隔離線を使用した。ロシアは満州からの入国を禁止し、中国の市民は5日間の経過観察を経なければ、列車に乗ることはできなかった。

ハルビンで消毒作業を行う人

 すべての医療関係者、除菌部隊の隊員らは特殊衣料を身につけ、フード、マスク、手袋をつけなければならなかった。作業が終わると、身につけていたガウンはすべて、屋外で、塩化水銀または炭酸の溶液を振りかけた後、専用の場所で洗濯され、靴は噴霧器で除菌された。歴史研究家たちは、除菌の手順を守られなかったこともあったが、衛生士が感染、死亡した後、そのようなことはなくなったと書いている。 

 こうした防護服は、天然痘、鳥インフルエンザ、コロナウイルスなど、ペスト以外の感染症のために使われていた場合でも、ペスト防護服と呼ばれている。

 防護服はコンビネゾン、フード、ガウン、メガネ、マスク、ゴム手袋、安全靴から成っている。セットには呼吸器が追加されることもある。

使い捨ての防護服を着ている医師

 ロシアの法律に基づき、こうした防護服は病院や診療所だけでなく、救急車や感染予防部隊などにも常備されている。救急車ではほとんどの場合、使い捨ての防護服が使われている。また現在、外国から飛行機でロシアに到着したコロナウイルス感染の疑いがある乗客に対応する際にも、使い捨ての衣服が使われている。使い捨ての防護服はかなり安価であるが、簡素なものとなっている。たとえば、安全靴の代わりに靴カバーをつける、防護ガウンの代わりにコンビネゾンとアームカバーまたはエプロンをつけるといった具合である。素材も異なっている。使い捨ての防護服はポリエステルなどの化学繊維で作られている一方、何度も使える防護服は頑丈な綿あるいは防水加工されたレーヨンなどで作られている。 

消毒作業

 衛生基準に従い、使い捨ての防護服は、使用後、消毒剤に浸けて廃棄しなければならないが、一般の防護服は処理をすればまた使うことができる。いずれも、防護服はウイルスの侵入を避けるため、縫い目を最低限にしてある。

 

生物化学防護服 

1930年代の化学物質処理の演習

 一方、感染地域で活動する兵士たちは、ペスト防護服ではなく、宇宙服そのものといった装備をしている。

  この防護服が開発されたのも20世紀初頭だが、この開発を促したのは細菌ではなく、第一次世界大戦で使用された化学兵器マスタードガス(イペリット)であった。

 1916年末、ロシアには化学兵器中隊が存在していたが、革命後の1918年になると化学兵器部隊が創設された(現在は放射線・化学・生物防護部隊と呼ばれている)。第二次世界大戦開戦に向けて、ソ連ではマスタードガスの蒸気から身を守る、特殊なゴム引きの生地の衣服が作られるようになった。

 1960年代になり、ソ連軍では化学兵器だけでなく、生物兵器の脅威下での作業に対処するため、部隊全体の共通した防護服が導入された。

チェルノブイリでの放射線量の測定、1986年

 コンビネゾン、フード、手袋、マスク(または呼吸器)に加えて、安全靴、換気装置、取り替えフィルターがセットになっている。

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