エヴゲニー・ハルデイの数奇な生涯:第二次世界大戦の最も有名な写真を撮った人

Yevgeny Khaldey/Sputnik
 3月23日はエヴゲニー・ハルデイ(1917~1997年)の誕生日だ。彼は、ソ連のカメラマンで、もともとは組み立て工、整備士だった。独ソ戦(大祖国戦争)の文字通り最初から最後までカメラに収めた稀有な人物だが、その後いったんは忘れ去られた。だが、今日では世界写真芸術の古典とみなされている。

 ベルリン占領は、ナチズムに対する最終的勝利を象徴し、第二次世界大戦の欧州の戦いに終止符を打った。そのシンボルとなったのが、ソ連の戦場カメラマン、エヴゲニー・ハルデイの写真だ。ドイツの国会議事堂に赤旗が掲げられるこの写真は、おそらく世界中のメディアが掲載しているだろう。

 しかし、写真の目くるめく成功は、その作者を故国のスターにはしなかった。戦後まもなく、彼は「凡庸」呼ばわりされて解雇され、長年にわたり事実上忘れ去られた。

胸に弾丸の入った少年

 エヴゲニー・ハルデイは、1917年3月23日、現在のウクライナ領にあるドネツクで、ユダヤ系の家庭に生まれた。ウクライナ民族主義者のユダヤ人に対するポグロムが国中を席巻したとき、彼は1歳だった。母親が身を挺して息子をかばったが、弾丸は母を貫通して、幼児の胸に入った。母は死に、子は生き残った。ハルデイが真の悲劇を目にしたのはこれが初めてだった。しかし残念ながら、悲劇はまだまだ彼を襲うことになる。

ニュルンベルク裁判中、エヴゲニー・ハルデイがヘルマン・ゲーリングと隣に

 写真には、ハルデイは早くも子供の頃から興味を示した。しばしば地元の写真館に行き、写真洗浄を手伝った。最初のカメラは自分で作った――2つの段ボール箱と祖母の眼鏡のレンズで。

 1930年代には、農業集団化によりこの地域で飢饉が深刻になり、14歳のハルデイは機関車の車庫で整備士として働かなければならなかった。旋盤での作業を通じて現場で覚えたことが、彼の受けた「教育」だ。そして実際のところ、これが彼の唯一の教育だった。

 ハルデイは、写真の技術を独学で身に付けた。仕事の合間に自分の車庫を撮影していたが、まもなく新聞「スターリンの労働者」に招かれた。並行して彼は、自分の作品をモスクワの新聞に送り、それらのいくつかは掲載されている。

 1937年夏、19歳のときにハルデイはモスクワに移り、ソ連の主要な通信社だった「タス通信」で働き始めた。当初、彼の仕事には、全国のコルホーズ(集団農場)や工場の労働者の撮影などが含まれていた。しかし、1941年6月22日に独ソ戦が始まると、すべてが変わった。

最高の戦場カメラマン 

 その時、ハルデイはタス通信のオフィスで働いていた。1941年6月22日12時に、ヴャチェスラフ・モロトフ外相の歴史的演説が聞こえてきた。「ソビエト連邦に対しいかなる主張もしないまま、宣戦布告さえせずに、ドイツ軍が我が国を攻撃した」

モスクワ市民がモロトフの演説を聴いている

 その瞬間、ハルデイは通りに飛び出して、彼の最も有名なショットの一つを撮った。モスクワ市民がモロトフの演説を聴いているさまを捉えたものだ。

「人々は、その場を去らなかった。彼らは佇み、沈黙し、考え込んでいた。私は尋ねてみた。『あなたは何を考えているのか』と。誰も答えなかった。私自身は何を考えていただろうか?戦争の最後のショットが勝利のそれになるだろうということを」

 ハルデイは後にこう振り返っている。だが、他ならぬ彼がそれを撮ることになろうとは、彼は夢にも思わなかった。彼の前途には、兵士たちと共に歩む1418日間の戦いが控えていた。ハルデイは、戦争の全貌をその最初から最後まで撮った、ソ連唯一のカメラマンだ。

足かけ5年の戦争

ベルリンを占領したソ連軍

 都市の廃墟、戦闘中の兵士、そしてまれな休息の瞬間。その一方で、すべてを失った民間人、そして無数の死…。ハルデイは自分が見たものをすべて撮った。彼の言葉によれば、はるか彼方の極北のムルマンスクからベルリンにいたるまで、プロパガンダではなく「現実の生活」を。彼はソ連の兵士と共にヨーロッパの半分を踏破した。しかし彼がついにベルリンに入ったとき、こう感じずにはいられなかった。そこで目にしたものはすべて、期待していた荘厳な終末からはかけ離れている、と。

「我々がこの1418日間ひたすら目指してきたことは、何かもっと壮大なもので終わるべきだと誰もが思っていた。ところが、ここにあったのは煤と煙で黒ずんだ国会議事堂にすぎず、驚くべき沈黙が支配していた」。ハルデイは、ベルリン占領をこう回想している。

 ところで、このカメラマンと同僚たちが国会議事堂に到着したときには、議事堂の周囲は、既にぐるりと、勝利を告げる赤旗で覆われていた。つまり、ハルデイは、かの有名な写真に示されている記念すべき瞬間はそこに見出せなかったわけだ。そこで彼は、それを「演出」した。そのことは、後年彼自身が語っている。

 ハルデイは、写真に写っている鎌と槌のついた赤旗を三本持ってきた。彼自身の言葉によると、それらの旗は、赤いテーブルクロスで縫われていた。ベルリンに着くと彼は、たまたま出会った3人の兵士に、あたかも初めてのように掲げてくれと頼んだという。

 良い角度を選んで、彼は2本のフィルムをぜんぶ使って撮りまくった。こうして、偉大な勝利の象徴が生まれた。写真が演出されたという事実は誰も気にしなかった。

ユダヤ人

赤の広場での最初の戦勝パレード

 ハルデイの貢献、功績の大きさは疑いを容れない。彼は、戦時中の最も重要な瞬間を撮った。ポツダム会談、ドイツの降伏文書への署名、ニュルンベルク裁判、白馬にまたがるゲオルギー・ジューコフ元帥、そして「赤の広場」での最初の戦勝パレード。

「なぜ戦い続けるの」と目が不自由な老人が尋ねる、ベルリン、1945年

 戦後、彼はソ連最高の写真家の一人として認められ、9つのメダル、赤旗勲章、勲二等祖国戦争勲章を授与された。ところが、そのわずか1年後、政府機関におけるユダヤ人に対する扱いは一変する。

 1946年、「お上」はハルデイをタス通信から解雇しようとした。ハルデイが、出張で余った機材を倉庫に戻すことを断ったから、というのが理由だった。1年後に彼は、勤務評定委員会にかけられることを余儀なくされ、評決は次のようになった。

「凡庸な記者であり、生産ノルマをかろうじてこなしているにすぎない」。こうした判断に、さらにこう付け加えられた。ハルデイは戦後うぬぼれた。しかも彼は、8年間にわたり共産党員候補でありながら、結局、党員になっていない、と。

 結局、ハルデイは、「モスクワの編集局の仕事量の減少に関連して」という文言で、1948年に解雇された。要するに人員削減ということだ。 

長い道のり

モスクワの朝、1956年

 こうして写真家は失寵の憂き目に遭った。しばらくの間、ハルデイは生命の危険を真剣に感じていた。1948年に、ソ連の俳優ソロモン・ミホエルスが死んだ(後にスターリンの命令で殺されたことが明らかになった)。この俳優をハルデイは何度も撮影していた。

 またハルデイは、手持ちのネガで、戦前のガラス板のものは、ハンマーで叩き潰した。スターリンがユーゴスラビア共産党の指導者、ヨシップ・ブロズ・チトーと対立すると、ハルデイはそのネガと写真を廃棄した。それらを亜麻布とともに洗面器で沸騰させて。

「晩秋」、1961年

 その後11年間、ハルデイは、その場しのぎの仕事で食いつないだ。彼が正式に職を得たのは、ようやく1959年のこと。スターリンの死から6年経っていた。それから17年間、ハルデイは、新聞のカメラマンとして地味に働き、1976年に退職した。故国の誰一人として、彼の功績に思いをいたさなかった。実際、彼はもう忘れられていた。

 再びハルデイの存在がクローズアップされたのは最晩年のことだ。戦勝50年の節目に、人々は彼のことを思い出した。

エヴゲニー・ハルデイ、1997年

 1995年にハルデイは、「ペルピニャン国際フォトジャーナリズムフェスティバル」に、フランス大統領から特別に招かれた。そして、最も名誉ある賞の一つ「芸術文化勲章」を授与された。

 写真家が亡くなる6ヶ月前の1997年5月末、ヨーロッパではハルデイに関するドキュメンタリー映画が公開され、アメリカでは本が刊行された。また、オークションでは、赤旗の翻る伝説的な写真が1万3500ドルで売れた。

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