なぜナポレオンはロシア遠征に踏み切ったか:フランス帝国滅亡への道

歴史
ゲオルギー・マナエフ
 ナポレオンのロシア遠征は、彼としても空前かつ最強の「大陸軍」を組織しての大遠征だったが、それは彼の軍隊と支配の終焉につながった。ナポレオンがロシア帝国への遠征に踏み切った4つの理由を挙げてみよう。

 ナポレオン・ボナパルト(1769~1821年)は、フランス皇帝となり(1804~1814、1815年)、ヨーロッパ大陸を完全制覇する野望を抱いていた。これを彼は、欧州諸国に対する軍事的勝利、それを受けての政治的支配で達成したが、それだけではない。宿敵イギリスに向けての「大陸封鎖」、すなわち欧州の主要な貿易港を管理下に置き、対英貿易を止めさせようとした。

 

1. ナポレオンはロシアの「撃滅」を思い立った

 1807年、ロシア皇帝アレクサンドル1世とナポレオンは、「ティルジットの和約」を結んだ。これにより、第四次対仏大同盟(ロシア、プロイセン、ザクセン、スウェーデン、イギリス)の対フランス戦争は、後者の勝利に終わった。

 ティルジットの和約で二つの大帝国、露仏が同盟し、イギリスとスウェーデンに対立することになった。そのため、間もなく1809年に、ナポレオンのフランスとその同盟国に対し、オーストリア帝国と英国の同盟である第五次対仏大同盟が生まれた。

 プロイセンとロシアはこの戦争には参加しなかったが、ロシアがナポレオンのブラックリストで次に位置していることが明らかになった。1811年にナポレオンは、駐ワルシャワのフランス大使、ドミニク・デュフール・ド・プラートにこう述べている。

 「5年のうちに、私は世界の支配者になるだろう。残るはロシアのみだが、滅ぼしてやる…。私は海も支配する。あらゆる商業、交易は、言うまでもなく私の手を通らなければならない」

 2人の皇帝の「友情」は、控えめに言っても、不安定だった。「彼はまったくビザンチンの人間のようだ」。ナポレオンがアレクサンドルについてこう言ったのは有名だ。アレクサンドルは、常にとらえどころがなく、腹の内を見せなかった。

 

2. ロシアは英国を狙い撃ちにした大陸封鎖に参加しなかった

 ティルジットの和約によれば、ロシアは、英国の海上貿易を妨げる大陸封鎖に参加しなければならなかった。英国は、ヨーロッパ大陸への商品輸出を禁じられるはずであった。

 当時、英国の主要な輸出品は何だったか?鉄と繊維だ。これは、およそあらゆる軍隊の基本的なニーズである。軍隊には銃砲と制服が必須なのだから。

 だからナポレオンは、大陸封鎖に伴い、いわば一石二鳥で、ロシアを含む欧州諸国の軍隊から物資を奪おうと考えたわけだ。さらに、大陸封鎖のため、ロシアの歴史家ルボミル・ベスクロヴヌイによると、ロシアの穀物輸出は4分の1に落ち込んだ。

 大陸封鎖は明らかに、政治的パワーとしてのロシアが望み、必要としていたものと真逆だった。他の欧州諸国にとっても同様だった。ナポレオンは自分の海軍に命じて、封鎖を破った国の貿易船を拿捕させようとしたが、これはあまり役に立たなかった。1810年、ロシアは依然として英国との貿易を続けており、しかもフランス製品の関税を引き上げた。これは大陸封鎖への公然の違反だった。

 

3. ナポレオンはロシアの皇女との結婚を相次いで拒絶されて激怒した

 ナポレオンは王族の血を引いていなかったので、せめて王族と結婚したかった。二度、彼はロシアの大公女に結婚の打診をした。政略結婚により彼は、個人的関係を通じて、ロシアの政治を支配しようと目論んだのである。1808年、ティルジットの和約の直後、フランス外相シャルル=モーリス・ド・タレーランは、アレクサンドル1世の妹であるエカテリーナ・パーヴロヴナ大公女(1788~1819)への結婚申し込みを個人的にツァーリに伝えた。ツァーリは求婚をやんわりと断った。まだ若いから…などと口をにごし、具体的なことは何も言わない、いつもの調子で。

 1810年、ナポレオンはまたも求婚してきた。今度は14歳のアンナ・パーヴロヴナ(1795~1865年)がお相手だ。彼女は、アレクサンドル1世の妹で後のオランダ王妃である。

 この申し込みも断られると、ナポレオンはすぐにオーストリア皇帝フランツ(1768~1835年)の娘、マリア・ルイーザ(1791~1847年)と結婚した。ナポレオンは、ロシアとの戦争を望む以上は、オーストリアとの同盟が必要だった。だから、彼の結婚は、それでなくても損なわれていた露仏関係をさらに悪化させた。

 

4. ロシアは、ナポレオンとの同盟から離脱したスウェーデンと同盟した

 この頃までにナポレオンは、欧州各国の軍隊を糾合し「大陸軍」を編成しようとしていた。ただ一国のみが「大陸軍」への支援を拒んだ。それはスウェーデンだ。この国を率いていたのは…ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドット(1763~1844年)。元々は、フランス帝国元帥だ。その彼が、深謀遠慮によりスウェーデン国王カール14世ヨハンとなっていた。独立した主権者になりたいと願ったベルナドットは、ナポレオンの政治体制からはずれ、結局、敵同士となった。

 1812年1月、ナポレオンはスウェーデンのポメラニアを占領した。3月、ベルナドットはスウェーデンとロシアの同盟を選択した。アレクサンドルは、ベルナドットがノルウェー国王になるのを助けると約束した(それは後に実現した)。 

 スウェーデンとの同盟はロシアにとって決定的だった。その後まもなく、1812年5月28日にロシアはオスマン帝国とブカレスト条約に調印し、6年間にわたる戦争を終結させた。オスマン帝国はまた、フランスとの同盟から脱退することを誓約した。条約は、ロシア軍司令官ミハイル・クトゥーゾフによって署名され、ロシア皇帝アレクサンドル1世によって批准された。ナポレオンのロシア侵攻のわずか13日前のことだ。