クトゥーゾフの賭け:ナポレオンにとって落とし穴となったモスクワ

1812年9月15~16日、モスクワが燃えるのを見ているナポレオン。

1812年9月15~16日、モスクワが燃えるのを見ているナポレオン。

Mary Evans Picture Library/Global Look Press
 今から205年前、ナポレオンのロシア遠征のさなかに、ロシア軍は、戦略的な理由から「第二の首都」であるモスクワを放棄した。ナポレオンはそれが勝利の証であると信じて、占領したが、それは実は勝利などではなかった。大火で灰燼と帰し、ほぼ無人のモスクワにとどまった「大陸軍」は、疲弊、消耗し、やがて敗北する。

 1812年9月13日(グレゴリオ暦)、モスクワ近くのフィリ村では、緊張した時が流れていた。極めて重大な会談に臨むため、約10人の、ロシア軍の主だった将官が、木造の小屋に集まった。彼らは、ロシアのかつての首都、モスクワを放棄し、ナポレオンによる占領に甘んじるべきか否かを決めねばならなかった。

 それは困難きわまる決定だった。モスクワをフランス軍に渡すのは恥辱だが、あえて都市防衛のために一戦を交えれば、事態は一層悪化する可能性がある。一週間前の「ボロジノの会戦」で、ロシア軍は甚大な損失(ロシア帝国参謀本部の名簿によると、45600人が死傷)を被り、疲弊し切っていた。

放棄されたモスクワ

「大陸軍」の名で知られる、ナポレオン率いるフランス軍がモスクワを目指す、1812年。

 ナポレオンとの再度の直接対決は、破局的な結果を招きかねない。そこで、ロシア軍総司令官ミハイル・クトゥーゾフは、異議申し立てににもかかわらず、モスクワからの退却を命じた。クトゥーゾフは、モスクワにこだわるよりも、軍と士気を保つことのほうが重要であると確信していた。

 「陛下、ナポレオンがモスクワに入ったことは、まだロシア征服を意味するものではございません」と、クトゥーゾフは時の皇帝、アレクサンドル1世に書簡を送っている

 「大陸軍」の名で知られる、ナポレオン率いるフランス軍は、翌9月14日、戦わずしてモスクワに入った。古の首都が外敵に占領されたのは、過去200年間で初めてであった(1612年にモスクワはポーランド人に占領されている)。だが、ナポレオンがモスクワ入りするまでに、同市はほぼ「もぬけの殻」となっていた。モスクワの当時の人口275,000人のうち約6,000人が残っていただけだ。

尊敬も払われず、火の洗礼を受けたのみ

 ナポレオンは数時間、モスクワからの公式の降伏の使者が現れ、市のシンボルたる鍵を引き渡されるのを、市の手前で待ち構えていた。ところが、誰も何も持って来なかったばかりか、ロシア軍と市民の両方が退去したと知らされた。落胆し失望したナポレオンは、とにかく都市に入り、クレムリンの皇帝アレクサンドル1世の居室に落ち着いた。

 しかし、「尊敬の欠如」はまだ最悪のことがらではなかった。フランス軍がモスクワに入城しつつある頃から、市のあちこちで出火し、その日の夜には凄まじい大火となった。が、誰が火をつけたのかはいまだに不明だ。ナポレオンは、モスクワ総督のフョードル・ロストプチンが市を去る前にそうした妨害行為を組織したとして、非難した。一方、ロシアの歴史家のなかには、侵略者のだらしなさ、無秩序から火事が自然発生的に起きたと信じる者もいる。

 いずれにせよ、大火のせいで、ナポレオンがこの奇妙な勝利を享受するのはいよいよ難しくなった。彼は到着した翌日には、猛火が迫るクレムリンを脱出し、より安全な場所に避難する羽目となった。

 ナポレオンは、ロシア人が自らの都市を敢えて焼くことに衝撃を受けた。「何と恐るべき光景!何という国民!奴らは野蛮なスキタイ人だ!」と、ナポレオンが叫んだことを、彼の副官を務めていたフィリップ・ポール・ド・セギュールが回想録に記している

モスクワのフレンチ・ライフ

ヴァシーリーヴェレシチャーギン

 木造家屋が主であったモスクワは、そのおよそ4分の3が燃え、大火は9月18日まで続いた。激怒したナポレオンは、彼の軍隊に街を略奪するにまかせた。略奪し放題という状況は、10万のヨーロッパの軍隊「大陸軍」を巨大で無秩序な群衆に変えてしまった。これにより、市に残っていたロシア人も、パルチザン活動に加わり、数千のフランス軍兵士が殺された。

 事態は悪化の一途をたどった。秋は深まり、次第に寒さが増していく。軍隊は、食料、備品を欠き、疲弊、消耗していった。モスクワ周辺の農民は、敵に食糧を渡さずに持ち帰った。こうした状況を受けて、ナポレオンは北方へ進軍し、首都サンクトペテルブルクを陥落させる企図を断念しなければならなかった。そこでとりわけ重大だったのは、クトゥーゾフの軍が増強され、戦略的に好適な位置からフランス軍をうかがっていたことだ。

不名誉きわまる撤退

モスクワから撤退するナポレオン。


 常勝のナポレオンは、こんな結末には満足できなかった。モスクワに在る間に、アレクサンドル1世に3回書簡を送り、和平を提案した。彼の要求は、戦争前と同じで、ロシアが骨抜きにしていた、イギリスに対する経済制裁「大陸封鎖」を強化することであった。

 だが、アレクサンドルは、3回とも無視した。

 こうした状況に陥った結果、ナポレオンは1812年10月半ばに、モスクワから撤退しなければならなかった。撤退の当初は、ドニエプル川とドヴィナ川の中間の、ロシア西部の占領地域で宿営し、冬の寒さをやり過ごすつもりだった。

 モスクワ退去にあたり、憤懣やるかたないナポレオンは、クレムリンを爆破するよう命じたが、それも失敗した。フランス軍の工兵は、十分な準備ができず、塔の一つを破壊するにとどまった。クレムリンは損傷を被ったが、生き残った。ロシア自体もまたそうであった。

 一方、クトゥーゾフ率いるロシア軍は、高度な移動戦術を展開する。パルチザンの活躍もあり、ナポレオンの退却は、文字通り地獄に変わった。食料、備品の欠乏、冬の酷寒で、大陸軍はついに壊滅、消滅し、ナポレオンは残軍を見捨てて、1812年12月にパリに逃げ帰った。