ロシアには黒人奴隷はおらず、あらゆる権利を剥奪された奴隷などというものもなかった。支配階級のすべてのニーズは、「農奴制」と呼ばれるシステムを通じて提供された(農奴は、奴隷とは異なり、財産を持っていて、法律が及んだ)。だから、ロシア最初の黒人が果たした役割は奴隷のそれではない。彼らは「奇跡」であり、貴顕の慰めであり、舶来の珍奇な存在だった。
19世紀の歴史画家ワシリー・スリコフの『銃兵処刑の朝』(1881)では、若きツァーリ、ピョートル1世(大帝)の背後に、赤い羅紗で覆われた箱馬車があり、その窓から女性の顔がのぞいている。皇族の女性がピョートルとともに処刑の検分に来たようだ。馬車後部の馬丁席には、青い羽根のついたターバンをかぶった黒人の小姓が二人いる。
ひょっとして彼らのうちの一人は、大詩人アレクサンドル・プーシキンの曾祖父として有名なアブラム・ガンニバルだろうか?いや、そんなことはあるまい。ガンニバルは、1698年にピョートルによりヨーロッパから連れて来られたか、1705年に彼に贈られたかのいずれかだ。どっちみちガンニバルは、皇族の女性に仕えていたことはない。ということは、17世紀末には、黒人の小姓は既にロシア宮廷の伝統だったか?
然り。ピョートルがまだモスクワに在った若い頃に、最初の黒人の従者がいたのだが、その名に歴史家イワン・ザベリンは言及している。彼らの名前はトモス、セク、アブラムだった。しかし残念ながら、彼らについては名前しか知られていない。
「彼は夜のように黒かった」
欧州の君主たちの召使い、使用人の中に、黒人が現れたのは十字軍の時代だ。黒人の召使いは、ロシアにもいた。ロマノフ朝初代ツァーリ、ミハイル・ロマノフの生母はマルファだが、彼女の住む宮殿の区画には、黒人の召使いがいたとの資料がある。当時、宮殿では女性の住む区画が分かれており、そこでは黒人は、小人やユロージヴイ(放浪無宿の「聖なる愚者」)と同じような役割を果たしていた。つまり、皇宮の退屈した女性たちを驚かせ楽しませていたわけだ。彼女らは、宮殿の一角に閉じ込められて一生を過ごさねばならなかった。
ツァーリ自身も慰みに黒人を召し抱えていた。モスクワの歴史家イワン・ザベリンによれば、ミハイル・ロマノフは、黒人のムラトを、次いでダヴィド・サルタノフを宮廷に住まわせ、豪奢な衣服を気前よく与えたという。また、このツァーリの召使のなかには、黒人の動物飼育係たちもいた。彼らは象の飼育係としてロシアにやって来たのだ(東方の王たちはロシア人に象を贈るのを好んだ)。1625年と1626年にトチャン・イヴライモフという名の黒人がツァーリに象の曲芸を見せて「楽しませた」、と記されている。
ミハイル・ロマノフの妻エヴドキアのもとには、黒人女性が住み込んでいた。ミハイルの息子、アレクセイ・ミハイロヴィチはサヴェリーという名の黒人を抱え、ロシア語の読み書きを学ばせたところ、わずか1年で宗教的韻文の読み書きと朗唱を習得した(しかも、ロシア語は現代のそれより難しかった)。
とはいえ、17世紀にはまだ、宮廷の黒人にものを教え込むのは、一種の娯楽に過ぎなかった。しかし、アレクセイ・ミハイロヴィチの息子、ピョートル大帝は、あらゆる民族と同じく黒人に対しても、宮廷で勤務し出世するリアルなチャンスを与えた。
アブラム・ガンニバルが「ロシア最初の黒人」だと言うなら、それは彼の輝かしいキャリアについてだった。当初、1714年までの彼は、宮廷の道化とともに言及されていたにすぎない。しかし間もなくピョートルは、この青年の才能を見抜いたようだ。
ツァーリはガンニバルにさまざまな任務を委ね始め、その後フランスに、軍事技術の研鑽のために派遣した。やがてガンニバルはロシア人に数学と軍事技術を教えるようになり、ピョートルの娘、女帝エリザヴェータの下では、軍事技術部門を統括する。
ガンニバルが傑出した人物だったのは疑いない。優れた軍事技術者、貴族となり、軍人(少将)、政治家(タリン総督)として国に貢献し、11人の子宝に恵まれた。そのなかには、プーシキンの祖父、オシップ・ガンニバルもいた。
黒人の廷臣たち
18世紀半ばになると、一団の黒人の宮廷使用人がいた。エカテリーナ1世の下には6人の黒人(彼女の外出にも付き添った)、アンナ・ヨアーノヴナの下には4人、エリザヴェータ・ペトローヴナの下には配達人、釜焚き、音楽家の黒人がいた。黒人は、エリザヴェータのお気に入りの娯楽である狩猟にも同行した。
エカテリーナ2世の治下、宮廷の黒人が20人に達すると、廷臣の特別な役職「宮廷のアラブ」が導入された。最初は「アラプ」という綴りが使われたが、19世紀には「アラブ」と書く慣わしになった。もっとも、民族としてのアラブ人はその中にはいなかったろう。
できるだけ黒い肌で長身の者がこの役職に選ばれた。職に就くに際しては、彼らはキリスト教に改宗しなければならなかった(正教のほかカトリックも許された)。
黒人は、皇帝および他の廷臣たちとともに旅行、移動したが、主な任務は、式典に際して皇帝のために扉を開くことだった。また、廷臣の中で最も豪華な制服を着ていたのは、まさにこの「宮廷のアラブ」だった。
イーゴリ・ジミン教授は次のように書いている。「19世紀末、アレクサンドル3世治下の黒人の完全礼装は、廷臣の中で最も高額で、国庫は543ルーブルも支出した」
金額でこれに近かったのは、 侍従長の完全礼装(408ルーブル)と、カメル・コサック、つまり皇帝のボディーガードを務めるコサック(418ルーブル)だけだった。当時の普通の男性用スーツはわずか10~15ルーブルだ。また、「宮廷のアラブ」の年棒も高額で、600ルーブル(ジュニア)から800ルーブル(シニア)の間だった。
「シニア」と「ジュニア」は、職務上の地位のみを意味した。19世紀には、黒人の子供たち「アラプチョーノク」はもはや宮廷には置かれず、「宮廷のアラブ」の職には成年に達した者が就くようになった。1809年10月に米国のジョン・クインシー・アダムズ公使がサンクトペテルブルクに赴任した後、アメリカの黒人が初めてロシア宮廷に現れた。
その中には、ネロ・プリンスもいた。彼は、米国におけるアフリカ系黒人によるフリーメーソン・ロッジの創設者の一人だ。彼の妻ナンシー・プリンスは、米国から夫と一緒にやって来た。この「宮廷のアラブ」の家庭は裕福で、召使もいた。
ナンシーは、自分のロシア滞在と、見聞したロシアの生活習慣について短い文章を残している。宮廷で多数の祝賀や式典を目の当たりにし、1824年のサンクトペテルブルクの洪水と翌年の「デカブリストの乱」も目撃した。夜会では踊りを拒んで、ロシア人を驚かせた。彼女は、ダンスがキリスト教徒にとって罪深いことだと信じていた。ロシア人たちがどれほど説得しても、ナンシーは首を縦に振らなかった。
1833年、彼女は米国に戻った。サンクトペテルブルクの厳しい気候は耐え難かったからだ。1836年、彼女の夫も妻に続いて帰国する。それまでに彼は、ほぼ20年間にわたり、ロシア皇帝の宮廷に仕えていた。
陛下の水煙管
通常、冬宮では、「宮廷のアラブ」は「アラブの食堂」で当直していた。彼らの日課はあまりタイトではなかった。陛下のために扉を開けねばならない式典はそれほど頻繁になかったので。時々彼らは、皇帝の居室まで客に付き添うように言われた。
アレクサンドル2世の治世では、黒人はもう一つ、日常的な仕事があった。皇帝のために水ギセルを用意することだ。アレクサンドルは消化器系の問題を抱えており、喫煙でそれが緩和されたのである。それに皇帝は喫煙そのものが好きで、たばこの混合物を作る技術のために、「宮廷のアラブ」を高く評価していた。
さらにもう一つ、黒人が伝統的に行ってきた仕事がある。冬宮のクリスマスツリーの下に贈り物を置くことだ。この場合、黒人は、主の降誕に贈り物を持ってきた「東方の三賢者」の象徴になることを求められたわけだ。
20世紀初めには、「宮廷のアラブ」への出費は削られ、常勤はわずか4人となった。「宮廷のアラブ」は、しばしばロシア人女性と結婚したので、その子孫はまだサンクトペテルブルクに健在だ。