スターリングラード攻防戦でのソ連兵の三大武勲

Georgy Zelma/Sputnik, Mchpv (CC BY-SA 4.0)
 ソ連が人類史上最も凄惨な戦いで勝利をつかむことができたのは、彼らの活躍のおかげだった。

1. パヴロフの家

 1942年9月中旬、ドイツ第6軍がスターリングラードの中心部に侵攻した。ドイツ軍がヴォルガ川に達する上で障壁となり得るすべての建物をめぐって、激しい攻防戦が行われた。

 9月27日、ヤーコフ・パヴロフ曹長は、街の心臓部にある一月九日広場の4階建ての住居からドイツの少人数の守備隊を放逐し、そこで守りを固めるよう指令を受けた。この建物が有名な「パヴロフの家」となった。この要塞で31人の赤軍兵士が2ヶ月間にわたって敵の攻撃に耐え、敵を撃退したのだ。

ヤーコフ・パヴロフ曹長、背景で「パヴロフの家」

 歴史に名を刻んだのはパヴロフ曹長だが、包囲戦の間中住宅の防衛を指揮したのは、自身の小隊を率いて曹長の部隊に合流したイワン・アファナシエフ中尉だった。

 「ヒトラーの兵士らは、我々の家に一日として平静を与えなかった。我が守備隊は、彼らに一歩も先に進ませず、彼らにとって目の上のたんこぶとなった。彼らは家を灰燼に帰そうと決めたらしく、日ごとに砲撃を強めていった。ある時は、ドイツの砲兵隊は終日休みなく砲弾を浴びせてきた」とパヴロフは回想録で語っている

 ソ連兵は、攻撃してくる敵に対し、屋上、窓、地下室から猛烈な銃撃を浴びせた。この住宅の地下室には、取り残された民間人も隠れていた。食糧や水、弾薬は、毎夜絶えず銃弾の雨が降り注ぐ中、ヴォルガ川から供給された。「パヴロフの家」は、ソ連軍の他の部隊との連絡を維持していたこともあれば、連絡を断たれて抵抗勢力の孤島と化したこともあった。

 ソ連兵の粘り強い抵抗によって、ドイツの第6軍はスターリングラードに釘付けになった。これを好機と見た赤軍は、11月19日、第6軍を包囲し、「ウラン作戦」を開始した。一週間後、「パヴロフの家」の防衛者たちは第62軍の別の兵団と合流し、一気に攻勢に転じた。

 巧みな防衛戦を展開した「パヴロフの家」の守備隊が包囲期間中に失った兵士は3人だけだった。ドイツ軍側の損害を数え上げることは今となっては不可能だが、数百人に上るだろうと言われている。

2. ミハイル・パニカーハの戦功

 1942年3月、太平洋艦隊に所属していた水兵のミハイル・パニカーハは、自ら志願して戦線に向かった。同年秋、彼のいた第883歩兵連隊は、スターリングラードの戦いの中でも特に激戦だったヴォルガ河畔の「赤い十月」工場防衛戦を展開していた。

 10月2日、連隊の陣地にドイツ軍が攻撃を仕掛け、ドイツ軍の戦車7両が塹壕のすぐそばまで迫った。兵卒のパニカーハは、可燃性の液体の入った瓶2つを持って敵の先頭の戦車に這い寄った。

 目標まで40メートルのところで彼は瓶を振り上げた。その瞬間敵の銃弾が瓶を貫き、彼の顔と軍服は炎に包まれた。

 たちまち火だるまとなったミハイル・パニカーハは、しかし自陣には戻らず、相手の先頭の戦車に駆け寄り、2つ目の瓶をエンジンルームのハッチに叩きつけた。

 「大きな閃光と煙が、炎上するファシストの戦車もろとも英雄を呑み込んだ」と第62軍を指揮したワシリー・チュイコフ中将は記している。これにより、ドイツ軍の進撃は中断した。

3. リュドニコフの島

 「リュドニコフの島」とは、ヴォルガ川に浮かぶ中州などではない。歴史に名を残すこの「島」が指すのは、イワン・リュドニコフ大佐率いる第138歩兵師団が守り通した陸の孤島、「バリカーディ」工場内の小さな区画だ。

 10月半ばから第62軍の部隊が同工場の敷地を守り、ドイツ軍がヴォルガ川沿岸に達するのを食い止めていた。しかし、11月11日には、「バリカーディ」工場の作業場はすべて奪われてしまった。

 工場の小さな一区画だけが、消耗しきった第138歩兵師団の残存勢力によって守られていた。ヴォルガ川を背に三方から敵に包囲された兵士らは、700メートル×400メートルの小さな土地に塹壕を掘って抗戦していた。

リュドニコフの島の記念碑の隣に立っているイワン・リュドニコフ大佐

 敵の銃撃がやまない中、辛うじて小型船を使ってヴォルガ川左岸から食糧・弾薬の供給が実施されていた。空からの物資供給も困難を伴った。「夜間飛行のプロであるパイロットらが低速のPo-2に乗って『バリカーディ』の防衛者らを助けようとした。弾薬と乾パンの入った袋を『島』に投下したが、我々の土地はあまりに小さく、袋は前線を越えて敵陣やヴォルガ川に落ちてしまうのだった」とリュドニコフは記している(出典:A. Isaev. Myths and truth about Stalingrad. М., 2013)。兵士らは、乾パン一つだけで一日中戦わなければならないこともあった。

 「我々はシラミだらけになり、空腹だったが、不快な気持ちはある時点で激しい怒りに変わった。もはや自分にもドイツ兵にも一切の憐みを感じなくなった。壁の一片をめぐって極めて過酷な戦いが繰り広げられ、我々もドイツ軍も、夜ごとに這い出し、工場の通路や地下道を伝って前進を試みた。我々は自分たちの食糧と弾薬を得るため、ドイツ軍は我々をヴォルガ川に突き落とすためだ。小さな集団の白兵戦が常に起こっていた」と師団の兵卒、ミーリャ・ローゼンベルクは回想している(出典:А. Drabkin. I fought in Stalingrad. Revelations of survivors. М., 2012)。

「バリカーディ」工場内の廃墟

 12月21日、赤軍の部隊によって第138師団の包囲は解かれた。今日、「島」にはソビエト兵の集団墓地が3つある。うち一つは千人以上の埋葬者を数える。他の2つについては、埋葬者の数を示す資料はない。

「ロシア・ビヨンド」がLineで登場!是非ご購読ください!  

もっと読む:

このウェブサイトはクッキーを使用している。詳細は こちらを クリックしてください。

クッキーを受け入れる