モスクワ市議会の建物の移転、1939年
当初、トヴェルスカヤ通りは狭すぎて曲がりくねっていたため、この通りを拡大するためにソビエト政権は苦労した。当局は、歴史的な建物の一部を破壊するのではなく、それを動かすことを決定した。家々はジャッキで持ち上げられ、レールが敷かれた。
例えば、モスクワ市庁舎はわずか40分で移転した。同様に、26軒の家がトヴェルスカヤ通りに移動した。さらに、時には通告さえされず、朝起きたら新しい場所で目を覚ました人もいた。
プーシキン広場の防空気球、1941年
第二次世界大戦中、阻止用の気球が都市の上に浮かんでいた。気球から地面まで、爆発物が結び付けられた多くのケーブルが垂れ下がっていた。気球やケーブルに衝突すると、飛行機が爆発する可能性があった。さらに、気球は敵が予想したよりも高い高度で飛行していたため、急降下爆撃で狙うことは困難だった。
モスクワでの捕虜ドイツ人の行進、1944年
かつてドイツ人がモスクワを行進したが、それは計画通りではなかった。 7月14日、捕虜となったドイツ人が密かに首都に連行されたが、このことを多くの党員や軍人でさえ何も知らなかった。 7月17日、早朝にラジオで行進が発表され、約6万人のドイツ国防軍の捕虜がモスクワのメインストリートを行進した。その後、散水車が続き、象徴的に「汚れ」から街を洗い流した。
スターリンの葬儀、1953年
約200万人が亡くなったヨシフ・スターリンを見たいと考えた。葬儀が行われた3月9日、モスクワ中央の通りはその全員を物理的に収容することができなかったが、当局は側道を遮断し、群衆が異なる方向に広がるのを防いだ。事故が起こり、多くの人が踏みつけられたり、胸を圧迫されたために死亡した。遺体安置所および登記所は、虚偽の理由で死亡証明書を発行するように指示された。
何にでもみんな並ぶ
70年代のトヴェルスカヤ通りの変わらないシンボルの一つが行列だ。人々はドーナツからブーツに至るまで、いろんなもののために並んでいた。
トヴェルスカヤ通りでの街頭取引、1989年
1990年代、トヴェルスカヤ通りでは、モスクワ全体と同様に、半合法的な民間取引に出くわすことが多かった。段ボール箱とテントが通りを埋め尽くし、トヴェルスカヤ通りは泥に埋もれた。
最初のマクドナルドがオープン、1990年
1月31日の開店初日だけで、約3万人が訪れた。さらに、当時の「マクドナルド」は安くはなかった。 ビッグマック一個の値段は、1か月分の地下鉄とバスの定期券代とほぼ同じだった。
戦車、1991年
1991年8月、モスクワとレニングラード(サンクトペテルブルク)は、小クーデタを生き延びた。トヴェルスカヤ通りの電信局は避難し、電動ライフル部隊に占領され、マネージュ広場で集会が開催され、戦車がトヴェルスカヤ通りを埋め尽くしバリケードを作った。
警察による抜き打ち検査、1994年
ソビエト連邦の崩壊後、未成年や男性を含む売春が国を席巻した。夜のトヴェルスカヤ通りは「メインウィンドウ」となっていた。売春を行う人を中心部からレニングラード大通りに追い出すために、警察は抜き取り検査を行っていた。
プーシキンスカヤ駅の通路での爆発、2000年
プーシキンスカヤ地下鉄駅(トヴェルスカヤ通りの中心部)の通路への攻撃は、8月8日に発生した。 13人が死亡し、118人が負傷した。調査によって容疑者グループが判明し、その全員がチェチェン在住者だった。しかし、2006年に実行者が死んだとされたため、事件はクローズされ、未解決のまま終わった。
代表チームが試合で負けた後、サッカーファンによって都心が破壊される、2002年
ワールドカップの日本との試合でロシアに敗れた後(まだ準々決勝にも行っていなかった)、ファンは車を燃やし、窓を壊し、バスをひっくり返した。ファンの何人かは、国会議事堂の建物に隠れていた。警察官の数が少なすぎて状況を制御できなかった 。2人が死亡し、79人が負傷した。
耐久キス大会、2004年
バレンタインデーに、トヴェルスカヤ通りでキス大会が行われた。キスの最長記録を競う大会が開催された。 46時間キスをしたカップルが優勝した。
「不滅の連隊」運動、2015
この運動は地方からモスクワに伝来した。2015年5月9日、トヴェルスカヤ通りで、モスクワで初めて開催された。参加者は戦争に行った親族の肖像画を持った。プーチン大統領も参加し、最前線の兵士の肖像画を手に取った。