トヴェルスカヤ通りの歴史的建築

トヴェルスカヤ通り

トヴェルスカヤ通り

=Moskva Agency
 モスクワの目抜き通りといえばトヴェルスカヤ通りだ。ショーウインドーのきらめきに幻惑されて、街の素晴らしい歴史を見逃さないように、名所をチェックしておこう。

 トヴェルスカヤ通りは、モスクワで最も古い通りの一つで、すでに12世紀にはここに、トヴェリ(モスクワの約200キロ北西)に通じる道があった。通りの名もこれに由来する。当時、クレムリンとこの通りは、ネグリンナヤ川に隔てられていた(19世紀初めに、川は配管に通され、地下に隠された)。川を渡る橋は、活発な日常の商いがなされていた「赤の広場」にまっすぐ通じていた。

 首都がサンクトペテルブルクに移された後も、ロシアのツァーリたちはクレムリンでの戴冠式を続けたが、その際、まさにこのトヴェルスカヤ通りを通って、かつての居城に入ったのだった。そのおかげで、18世紀にこれはモスクワの目抜き通りとなり、今日にいたるまでメインストリートであり続けている。

 トヴェルスカヤ通りの観光が必須なのはこういう訳である。その最も興味深い場所を、次にご紹介したい。

ホテル「ナツィオナーリ」とロシア連邦下院(ドゥーマ)

ホテル「ナツィオナーリ」は、20世紀初頭の最も豪華なホテルのひとつだ。ロケーションの良さと豪華なインテリアに加え、最新技術が完備していたことが受けた。=コンスタンチン・ココシニコフ/Global Look Press撮影ホテル「ナツィオナーリ」は、20世紀初頭の最も豪華なホテルのひとつだ。ロケーションの良さと豪華なインテリアに加え、最新技術が完備していたことが受けた。=コンスタンチン・ココシニコフ/Global Look Press撮影

 クレムリン側からトヴェルスカヤ通りに入ろうとすると、通りの両側に二つの建物がそびえているのが目に入る。両者が竣工した時期はわずか30年しか隔たっていないが、その外観は、各々の建物が体現する歴史的時期が全然異なるように、まるで違っている。クレムリンから向かって左側にあるのは、ホテル「ナツィオナーリ」。20世紀初頭の最も豪華なホテルのひとつだ。右側には、ソビエト政権の象徴、「労働国防評議会」の建物が見える。ここには今、ロシア連邦下院(ドゥーマ)が置かれている。

 このホテルが開業したのは1903年。宿泊料は安くなかったが、宿泊客は引きも切らなかった。ロケーションの良さと豪華なインテリアに加え、最新技術が完備していたことが受けた。ホテルは、電動のエレベーター、電話、蒸気によるセントラルヒーティングなどを備えていた。

ソビエト政権の象徴、「労働国防評議会」の建物には今、ロシア連邦下院(ドゥーマ)が置かれている。=コンスタンチン・ココシニコフ/Global Look Press撮影ソビエト政権の象徴、「労働国防評議会」の建物には今、ロシア連邦下院(ドゥーマ)が置かれている。=コンスタンチン・ココシニコフ/Global Look Press撮影

 大実業家や外交官、成功した「ボヘミアン」らが滞在し、そのなかには、後のノーベル賞作家イワン・ブーニンから、世紀のバレリーナ、アンナ・パヴロワにいたるまで、有名人が数あまた。ロシア革命後は、革命指導者レーニンが一時期ここに住んでいた(政府がクレムリンに移る前のことだ)。

 さて、トヴェルスカヤ通りの真向かいには、ソ連のシンボルが屹立している。構成主義のファサードをもつ、このモニュメンタルな巨大建造物は、1932年~1935年に建てられた。そのために、古い教会や17世紀の邸宅が取り壊されている。そしてその後長年にわたりこの建築は、ソ連政府の建物のモデルとなった。1937年の観光ガイドブックには、「新しいモスクワで最も美しい建物の一つ」と書いてある。

“引っ越した”サッヴィンスコエ・ポドヴォリエ(トヴェルスカヤ通り6-6)

切妻形の屋根、角に立つ塔。様々な色のタイルで飾られたファサード。これは、サッヴィノ・ストロジェフスキー修道院付属の宿舎で、20世紀初めに、擬ロシア様式で建てられた。=Legion Media切妻形の屋根、角に立つ塔。様々な色のタイルで飾られたファサード。これは、サッヴィノ・ストロジェフスキー修道院付属の宿舎で、20世紀初めに、擬ロシア様式で建てられた。=Legion Media

 トヴェルスカヤ通り6番地の中庭には、美しい外観をもち、数奇な運命をたどった建物がある。これを見るためには、アーチをくぐって中庭に入らなければならない。切妻形の屋根、角に立つ塔。様々な色のタイルで飾られたファサード。これは、サッヴィノ・ストロジェフスキー修道院付属の宿舎で、20世紀初めに、擬ロシア様式で建てられた。その一部は、16~17世紀の邸宅を思わせる。部屋は、アパートや事務所として賃貸しされた。

 1939年に、この家が新たな建設の邪魔になることが分かったが、取り壊さずに、50メートル、街区の奥の方に移動させた。当時、モスクワではこうした家屋の移動がしばしば行われていた。移動された家屋は約70棟に及んだが、その中でもこの建物は最も重く、困難を極めた。総重量が2万3千トンに達したからだ。

 「引っ越し」は、住民を外に出さずに、わずか一晩で行われたが、それに先立って数か月間、準備作業がなされた。あるアパートで子供がその夜、移築前に積み木の塔を作っていたが、それが崩れなかったという伝説がある。

モスクワ総督官邸(現モスクワ市庁舎、トヴェルスカヤ通り13)

この円柱を備えた赤い建物は、1782年に、モスクワ総督、チェルヌイショーフ伯爵のために、有名な建築家マトヴェイ・カザコフによって建てられたもの。=コンスタンチン・ココシニコフ/Global Look Press撮影この円柱を備えた赤い建物は、1782年に、モスクワ総督、チェルヌイショーフ伯爵のために、有名な建築家マトヴェイ・カザコフによって建てられたもの。=コンスタンチン・ココシニコフ/Global Look Press撮影

 この円柱を備えた赤い建物は、かつてはほぼ2分の1の大きさであったが、ここで行われる舞踏会にはモスクワ中の貴顕が集まったものだ。この家は1782年に、モスクワ総督、チェルヌイショーフ伯爵のために、有名な建築家マトヴェイ・カザコフによって建てられたもの。邸宅の最初の所有者が亡くなった後は、国がこの家を買い取り、以来それはモスクワ総督および市長の官邸として、今日に至っている。

 1930年代にトヴェルスカヤ通りの拡張のために、この家も移築されたが、その距離はわずか13・5メートルだった。その代わり、41分という記録的な速さで完了している。その際、隣に立ち並ぶ巨大な建物でかすんでしまわないように、2つの階が建て増しされている。

出版業者スイチンの事務所(トヴェルスカヤ通り18)

出版業者スイチンの事務所=Legion Media出版業者スイチンの事務所=Legion Media

 これは、モスクワのアールヌーヴォー建築では最も美しいものの一つだ。20世紀初めには、有名な出版業者イワン・スイチンの所有だった。ここには、彼の日刊紙「ルースコエ・スローヴォ(ロシアの言葉)」の編集局があったが、運命の皮肉で、革命後には、ソ連の主要メディアの一つ、イズベスチヤ紙の編集局が入った――自社ビルができるまでの間だったが。1979年、この建物は、同紙の構成主義風の新館を遮るというので、30メートル脇のほうに移築されたが、幸い、その洗練された装飾は保たれた。

イギリス・クラブ(トヴェルスカヤ通り21)

この建物の華やかな時期は1831年に始まる。この年、男性のエリートクラブである「イギリス・クラブ」がここに移ってきたからだ。=Legion Mediaこの建物の華やかな時期は1831年に始まる。この年、男性のエリートクラブである「イギリス・クラブ」がここに移ってきたからだ。=Legion Media

 トヴェルスカヤ通り沿いでは唯一、後世の改築で損なわれなかった古典主義的建築。柱廊玄関、壮麗な中庭、二頭の獅子を乗せた門柱――こういった特徴をもつ大邸宅だ。建てられたのは18世紀末だが、その最終的な外観が定まったのは、1812年のナポレオンのロシア遠征、モスクワ大火の後のこと。

 この建物の華やかな時期は1831年に始まる。この年、男性のエリートクラブである「イギリス・クラブ」がここに移ってきたからだ。モスクワの伊達男なら誰でも、クラブへの入会を夢見ていた。クラブのモットーは「Concordia et laetitia(協調と陽気さ)」。ここでは、豪華なランチが供され、トランプ遊びをしながら、政治の議論が活発に交わされた。会員は400人までで、会員候補たちが首を長くしてチャンスを待っていた。新規入会は、推薦と非公開の投票の後で決まった。現在、この建物には、ロシア現代史博物館がある。

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ブリャートのエヴェンキ族が先祖の装飾を再現

東シベリアの先住民族であるエヴェンキ族の人々はかつて、顔や手に刺青を施していたが、その手法は少々変わっていた。トナカイの毛を石や煤で黒く着色し、それを針に通し、肌に直接縫い付けて様々な模様にした。

Zorik Darbakov

 こうした刺青を持つ者は「縫われた顔」と呼ばれ、18世紀の民俗学者ヤコブ・リンデナウとヨハン・ゲオルグ・グメリンの記録に残されている。

 こうした模様を再現するべく、フォトプロジェクト「縫われた顔」を実施したのが、ウラン・ウデ在住の友人グループである。オリガ・ダシーエワ、オリガ・イメーエワ、ダリヤ・バハノワ、ルスラン・ワチェラノフ、エレーナ・ツィディノワの5人組は、エヴェンキ族文化の研究と保存を行っている

オリガ・ダシーエワは語る:

「タトゥーはメイクアップ・アーティストに描いてもらいました。エヴェンキ族の刺青については聞いた事がある程度だったので、この特徴的な文化を実体化させてみたかったのです。最近では、若手ミュージシャンのULTAN KAI(マクシム・カラムジン)が私たちのプロジェクトに触発されて、刺青を施しました」。

 刺青の模様は、トナカイの角、小道、タンバリン、偶像などである。各々の社会的ステータス(狩人、トナカイ飼い)を表すほか、悪霊除けの護符としての役割があった。

 こうした特徴的なエヴェンキ族の模様は、現在では刺繍や骨彫刻に見られるのみで、刺青は行われていない。

 研究者によると、このような伝統はヤクートやチュクチ、エスキモーなど、他の北方諸民族にも見られる特徴だという。

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「ものさし と まなざし」:日露建築家ユニットKASAの個展が東京にて開幕

KASAは、東京とモスクワを拠点に活動する建築家ユニット。その初の個展では、国籍も性別も異なるふたりの「ものさし」と「まなざし」との間に生まれる往復運動、KASAのこれまでの歩みを主にドローイングとテキストで綴る。

KASA / KOVALEVA AND SATO ARCHITECTS 提供

日露両国で幅広く活動するKASAはロシアのアレクサンドラ・コヴァレヴァと日本の佐藤敬による建築家ユニット。

 ヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展。1895年の第1回開催以来、連綿と続く国際的な美術の祭典のために、恒久パビリオンを現地に所有している国もある。ロシアもその1つで、ロシア館は1914年にアレクセイ・シューセフが設計した。その傑作建築を建造当初の姿に近い形で蘇らせるべく、改修設計を担当したのが、日露建築家ユニットのKASAだ。ロシア館は第17回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展で特別表彰を受賞した。

 日露両国で幅広く活動するKASAはロシアのアレクサンドラ・コヴァレヴァと日本の佐藤敬による建築家ユニット。2022年、2023年と小石川植物祭を企画して総合ディレクターを務め、好評を博した。

 こうした成果も含め、KASAの2人の足跡と世界観を詩と絵、写真や建築模型で表現した初の個展「KASA展:ものさしまなざし」が東京青山で開催されている。

 展示されたキャンバスの裏に詩が綴られ、絵と併せて淡いながら包容力ある色彩に満ちた空間となっている。

 同時に、否応なく自然に切り込まざるを得ない建築に対する逡巡を感じると同時に、それでもなお追及する建築の温かさを想像させる。会場に流れる小石川植物祭の映像からは、KASAの制作姿勢の原点も垣間見えるだろう。

建築家ユニットKASAの「KASA展:ものさし と まなざし」は東京都港区のPRISMIC GALLERYにて開催中。会期は2025年3月2日まで。

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無料のロシア語オンライン講座7選

今や、家を離れずにロシア語を学ぶことができる。オンライン講座の主なもの、または最もよく利用されているものを集めた。 

Kira Lisitskaya (Photo: ATHVisions,Tatiana Sidenko/Getty Images)

1. プーシキン記念国立ロシア語大学の教育ポータル(ウェブサイト)におけるロシア語コース

 プーシキン記念国立ロシア語大学は、ロシア語の学習法と教師養成の「一大拠点」だ。同大学は、外国人がロシア語を独習できるように、ポータルサイトにオンラインコースを開設した。世界中のどこからでも、また誰でも、しかも完全に無料で、ロシア語学習を始めたり、継続したりすることができる。

 ロシア語を初級から上級レベルまで学ぶオンラインコースには、ヨーロッパの分類にしたがって、6つのトレーニング・モジュール(A1~C2)が含まれている。このコースの言語学習システムは、読む、書く、聞く、話す4種類の領域すべてを発達させる。その際に、発音も独習可能だ。開始と終了時には、テストが提供される。

 このオンライン教材は、日常のコミュニケーションのためのロシア語の習得や、試験準備に最適だ。 

2. 国立研究大学高等経済学院のロシア語短期コース(プラットフォーム「Universarium」に含まれる)

 高等学院のオンライン・ロシア語コースは、シンプルでわかりやすいインターフェースが特徴だ。このコースでは、A1~A2レベルの語彙と文法を簡潔に紹介しており、既存の知識を整理するのに役立つ。対象者は、すでにロシア語を勉強していて、文法の基礎を知っている人だ。説明などがロシア語以外でなされることはない。つまり、すべての資料は、ロシア語で説明され、イラストで補われている。

 どちらのコースも、15のモジュールに分かれており、各モジュールは、1つのコミュニケーション・トピックを扱う(「家族」、「趣味」、「電話での会話」、「健康」など)。また、各コースの1つのモジュールには、動画レッスン(トピックに関する会話、文法と語彙の説明)、関連資料、まとめのテストが含まれている。

3. ロシア語。トムスク工科大学の初級レベル(プラットフォーム「Lektorium」と「Stepik」に含まれる)

 このコースの目的は、初級レベル(A1)のロシア語の音声、語彙、文法を習得すること。対象者は、外国人の入学希望者と学生、さらには、ロシア語を学びたい人すべてだ。

 このコースは、5つのセクションからなる(「文字と音」、「知り合いになる」、「家族」、「街」など)。各セクションには、いくつかの動画レッスン、簡潔な説明、レッスンに出てきた語彙が含まれている。さらに、各セクションには、正しい答えを選択するインタラクティブな演習がある。各章の後では、シミュレーターで知識をテストし、スキルを高めることができる。 

 動画レッスンでは、すべての資料がロシア語で説明される。レッスンの語彙には、英語と中国語の訳が付いている。

4. 「Элементарно.ру(Elementarno.ru)」

(外国人のためのロシア語学習)。ロシア連邦政府付属金融大学・オープン教育大学。金融大学のオンラインプラットフォーム

 このコースは、8つのレッスンに分かれている。各レッスンは、1つのコミュニケーション・トピックを扱う(「私の一日」、「私の趣味」など)。また、トレーニング・シミュレーターがあって、さまざまなテーマについて、一連のインタラクティブなタスクを行うことができる。1つのレッスンには、動画、辞書、短い会話、タスクが含まれている。すべての資料は、ロシア語で提供される。

5. ロシア語での生活と仕事。サンクトペテルブルク国立大学

 外国人向けの無料オンライン・ロシア語コース。ロシア語での会話、読み書きのほか、労働許可を取得するための試験準備を始めることができる。

 コースには、英語、中国語、ウズベク語、タジク語、トルコ語、ベトナム語のネイティブ向けに、6つのバージョンがある。

6. 外国語としてのロシア語。ロシアのカザン連邦大学の「Stepik」で学ぶ

 ロシア語を学びたい外国人のための入門コース。このコースには、中国語の字幕が付いており、すべての語彙は中国語と英語の訳が付いている。

 このコースは、動画レッスンの形式で作られており、ロシア語のアルファベットと音声に慣れるのに適している。さらに、各モジュールは、初めてロシアを訪れた外国人が直面する典型的な状況を扱っている。たとえば、「知り合いになる」、「パスポートコントロール」、「タクシーに乗る」、「街」など。

7. シベリアでの休暇:シベリア連邦大学の語学・言語コミュニケーション大学で過ごす

 各レッスンには、語彙、文法、地域研究の教材の動画が含まれている。さらに、レッスンには、語彙、文法、聴解の練習テスト、まとめのテスト、参考資料がある。このコースは、基本的なコミュニケーション・スキルを習得するのに役立つ。それは、ふだんの生活および社会的・文化的な領域で日々直面する状況において、必要となるものだ。

この資料は、プーシキン記念国立ロシア語大学の専門家のご協力で準備されました。

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ロシア人旅行家フョードル・コニュホフが南大西洋を横断した…手漕ぎボートで!

2月11日、船「AKROS」が東経20度を越え、インド洋に入った。こうして、伝説的な旅行家フョードル・コニュホフは、手漕ぎボートで南大西洋を横断した史上初の人物となった。

@konyukhovfedor

 同じ船で、2018年12月から2019年5月にかけて、彼はニュージーランドからチリのホーン岬まで旅し、154日間で6400海里(11525 km)を移動した。

 4年後、旅行者はホーン岬からオーストラリアのアルバニーまで、西半球から東半球へ向かうことを決意した。彼は南大西洋と南インド洋の2つの海を横断しなければならなかった。

 2024年11月、コニュホフのボートはアルゼンチンのウシュアイア港に到着し、12月5日の夜明けにドレーク海峡からオーストラリアに向けて出発した。一方、南大西洋では、73歳の誕生日を祝った。

 危険で困難な旅が始まってから68日後の2月11日の夜、コニュホフのボートは南アフリカのアガラス岬を通過し、インド洋に入った。これは新記録だ!

 航海の最終地点である西オーストラリアのルーウィン岬まで、4200海里の距離が残っている。

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ロシアの歌「百万本のバラ」を訳してみた(いっしょに歌ってみよう!)

この曲が初めて歌われたのは、40年以上前のことだ。しかし、時代を超えたヒット曲として今も知られている。それは、愛と、愛のためにすべてを犠牲にする心を歌い上げている。

Kira Lisitskaya (Photo: ZUMAPRESS, imageBROKER/Global Look Press; freepik.com)

 これは、ソ連・ロシアのポップミュージックの女王、アーラ・プガチョワの最も有名な曲の1つだ。1983年の曲で、ソ連の詩人アンドレイ・ヴォズネセンスキーの歌詞による。その興味深いストーリーは、グルジア(ジョージア)の画家ニコ・ピロスマニに関する逸話を再現している。彼は、愛する女優のために、尋常でない、素晴らしい行為をしたという。 

「百万本のバラ」(Миллион алых роз)

昔々、あるところに絵描きがいました。

家とキャンバスを持っていました。

でも、彼はある女優を愛していました。

彼女は花が好きでした。

Жил-был художник один,

Домик имел и холсты,

Но он актрису любил,

Ту, что любила цветы.

 

そこで、彼は家を売りました。

絵と家を売り払いました。

そして、有り金全部で買いました。

たくさんのたくさんの花を。 

Он тогда продал свой дом,

Продал картины и кров

И на все деньги купил

Целое море цветов.

 

コーラスで繰り返す(2回)

百万、百万、百万の真っ赤なバラ

窓から、窓から、窓から見える。

本当の恋をしている人が。

あなたのために人生を花に変えたのです。

Миллион, миллион, миллион алых роз

Из окна, из окна, из окна видишь ты.

Кто влюблен, кто влюблен, кто влюблен и всерьез.

Свою жизнь для тебя превратит в цветы.

 

朝、あなたは窓のそばに立つでしょう。

あなたは、頭がおかしくなったのか?

夢が続いているかのように、あたり一面が花でした。 

Утром ты встанешь у окна:

Может сошла ты с ума?

Как продолжение сна - площадь цветами полна.

 

魂が凍りつきました。

「どこのお金持ちのいたずらかしら?」

でも、窓の下に、息も絶え絶えに、

貧しい画家が立っているだけでした。

Похолодеет душа,

«Что за богач здесь чудит?»

А под окном, чуть дыша,

Бедный художник стоит.

 

コーラスで繰り返す(2回)

 

出会いは束の間でした。

夜、汽車が彼女を連れ去りました。

でも、彼女の人生には狂気のようなバラの歌がありました。

Встреча была коротка:

В ночь ее поезд увез,

Но в ее жизни была песня безумная роз.

 

画家は一生独り暮らしでした。

つらいことがたくさんありました。

でも、彼の人生は、あたり一面の花のようでした。 

Прожил художник один,

Много он бед перенес,

Но в его жизни была целая площадь цветов. 

コーラスで繰り返す(4回)

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ボリス・パステルナークの小説『ドクトル・ジヴァゴ』が必読の書である5つの理由

ロシア革命と内戦を舞台に描かれた、このまさに人間的な物語は、何世代にもわたってカルト的な人気を誇っている。また、それはかつて「プロパガンダの武器」ともなっていた。

David Lean/Metro-Goldwyn-Mayer, 1965

1. 50年間にわたる、ロシアの激動の時代を如実に体験できる

 この長編小説は、医師ユーリー・ジヴァゴの青年時代から死に至るまでの物語である。しかしこれは、一個人の軌跡ではなく、20世紀の激動の時期を背景にした壮大な物語だ。そして歴史そのものがここでは、完全に独り立ちした主人公となっている。読者は、帝政ロシアの生活、戦時の疎開、捕虜としての監禁、革命、内戦を如実に体験する。 

2. 最高の恋愛小説の一つ

 不倫と三角関係というテーマが、背景の内戦と不可分に溶け合っている。内戦は、善と悪、白軍とボリシェヴィキ政権の間で揺れ動く人々の戦いと葛藤だ。

 読者の前に、愛のジレンマが示される。いずれの側をとることも不可能に思える。妻に忠実なジヴァゴが、ララという女性に心を奪われてしまう。彼女は、ジヴァゴがまだ革命前に、たまたま見知った女性だった。ところが内戦時に、偶然のいたずらにより、二人は再会し、互いに引き寄せられることになる…。 

 この小説における恋愛は、そのかなりの部分が自伝的である。文学研究者たちによると、ララのモデルは、作家の最後の恋人、オリガ・イヴィンスカヤだ。

3. ノーベル文学賞を授与された、数少ないロシアの小説の一つ

 この作品は、パステルナークの畢生の大作であり、1945~1955年にかけて執筆された。しかし、ソ連の出版社はすべて、その原稿を拒否した。検閲官たちは、キリスト教のモチーフが強すぎること、そして、革命に対する作者の態度が複雑であることに気づいた。

 パステルナークは、危険を冒して原稿を外国に送ることを決意。作品はすぐにイタリアで出版され、その後アメリカとイギリスでも刊行された。

 1958年、作家は、「現代抒情詩における大きな功績と、ロシアの偉大な叙事的長編小説の伝統を継承したこと」により、ノーベル賞を授与された。しかし作家は、受賞を断念せざるを得なかった。ソ連では、この成功は喜ばれず、逆に大規模な迫害が始まった。衝撃を受けたパステルナークは重病に陥り、1960年に亡くなった。 

4. パステルナークの詩の魅力

 パステルナークは、知的な家庭に生まれ、優れた教育を受け、ロシア詩の「銀の時代」に接し、象徴主義詩人の一員となった。『ドクトル・ジヴァゴ』以前には、彼は、詩人として、また詩の翻訳者として有名だった。シェイクスピアの戯曲、フランス語とドイツ語の詩などを見事に訳している。

 主人公である医師ユーリー・ジヴァゴが書いた詩は、小説中の最も重要な部分となり、作者パステルナークはそれを、付録のように巻末に載せている。それらの詩は、医師の所持品の中から発見されたという設定だ。パステルナークの愛読者の多くは、この詩の部分が、散文による本文よりも重要だとさえ考えている。

5. アメリカはこの小説をプロパガンダの手段に利用した

 2015年、CIA(米中央情報局)は、この小説の海外出版に関与していたことを示す資料を機密解除した。それによると、1957年、CIAは指令を出した。この書を可能な限り多く印刷し、さまざまな言語で配布することに注力するよう推奨する、というものだ。

 1958年にブリュッセルで開催された万国博覧会や、1959年にウィーンで開かれた「世界青年学生祭典」の、ソ連からの参加者にこの本を無料配布する取り組みを始めたのもCIAだった。

 「CIAの書籍プログラムにより、ソビエト圏の知識人の大半が、自由世界の価値観や文化に関する情報を入手できた」。機密資料の公開に際し、こうした説明が添えられていた。

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