1929年生まれのエレーナ・スモリナは、1942年のヴォログダでの新年のパーティーはとても控えめだったと話す。「学校でモミの木を飾り付け、その周りで輪舞した。厳寒爺さん(ロシア版サンタクロース)はおらず、楽しみも、愉快な笑いもなかった」。1943年と1944年も同様だった。パーティーの料理は灯油コンロで焼いたフラットブレッドと缶のシチューなどだった。
最初の「本物」の新年が来たのは1946年だった。「母の兄、セリョージャ伯父さんがやって来た。4人兄弟で唯一生き残ったのだった! プレゼント、ご馳走、再会の喜び! ニシン入りのホクホクのマッシュポテト、キャベツとキュウリの酢漬けがテーブルに並んだ。12時にラジオで新年の挨拶を聞き、祝い合ったが、夜更かしはしなかった。1月1日は労働日だったのだ!」
前線の新年
ドイツ軍に包囲され、攻撃されていたレニングラードの新年はいっそう特別だった。リンマ・ヴラソワは1941年の新年のパーティーをこう回想している。「モミの木を手に入れて飾り付け、私たち、つまり栄養失調でほとんど動けない子供たちを招待してくれた。特別楽しかった思い出はない。街への砲撃と空腹、寒さで完全に『殺されていた』子供たちを楽しませるのはとても難しかったからだろう。それでもあの苦しい状況でパーティーが開かれたことに、信じ難い喜びと驚きを感じた。だが最も驚いたのは、この新年のパーティーが開かれただけでなく、ご馳走もあったということだった。プレゼントの代わりにガラスの瓶を渡されたが、その中には一片のパンと少量の馬肉ソーセージが入っていた。私たち子供にとってはまさに奇跡だった。パンと水以外、何も食べていなかったからだ。さらに、全員に持ち帰り用のプレゼントが渡された。おいしく甘いゼリー入りの瓶だった。当時はめったにお目に掛かれないものだった」。
戦場の状況はずっと厳しく、祝いの余地などなかった。ソ連の諜報員レオニード・ヴェゲルは、1942年12月31日のスターリングラード近郊での夜をこう述懐している。「夕飯はないと言われた。寒さの中、濡れた服を着て座っているのは不快だ。これが新年の夜だった。私たちの楽しくない新年の夜だ。眠くはない。疲れが少し取れると、自動小銃を取って暗闇の中周囲を散歩しに行く。隣の窪みに鎖のようなものが見える。近くに数頭の馬がいる。そのうち一頭の飼い葉袋を探り、そこに数本のトウモロコシがあることを確かめる。袋に手を突っ込み、トウモロコシを一本取り出す。もう一本取り出す。それをポケットに入れ、噛みながら、仲間のもとに戻る。焚き火を起こす。暖かくなる。もはやおいしく思えるトウモロコシの粒を噛み、寝転ぶ。うとうとしながら、新年の夜だったと思い出す。そんなに悪くないもんだと自分に言い聞かせる」。
夕飯は焼いた小麦
戦闘の最中に新年を祝わなければならない人々もいた。ミハイル・オブラスツォーフは、1942年の大晦日、ナチスを押し返す反撃に参加し、その直後に新年のパーティーがあったことを記憶している。「この大晦日の晩、小隊長が塹壕に歩哨を配置し、残りの兵士を土小屋に集めた。そこに間もなく私たちの『養育係』――中隊曹長が調理兵を連れて来た。彼らが持って来たのは、温かい食べ物、アメリカのシチュー、それからもちろん100グラムのウォッカだ。戦死者を悼み、兵士らの勇猛な戦いぶりと1943年という新しい年の訪れに乾杯した。すると体格の良い兵士、ヴォルガ川沿岸出身のコーリャ・セミョーノフが許しを得て『郵便局で御者をしていた時』を歌い始めた。彼は我を忘れて歌い、私たちも息をひ そめて聴いていた。誰もが想像の中で自分をこの曲の主人公になぞらえていた」。
占領地に住むソビエト市民は、祝いどころではなかった。生きるか死ぬかの問題だった。「私たち家族が住んでいた地下室は、ドイツ軍の陣地の前線になってしまった。新年間近という時にドイツ軍に追い出され、私たちは路頭に迷うことになった。外は暖かく、風はなかった。少し雪が降っていた。姉のクラーヴァが3歳の妹ガーリャを抱き、すでに12歳だった私は6歳の弟ジェーニャの手を取って歩いた。夜を明かす場所を考えなければならなかった。奇跡的に残っていた粘土造りの野外厨房を見つけ、そこに泊まった。皆腹が空いていたが、私たちには何もなかった。隣に年配の夫婦が住んでいた。彼らが焼いた小麦を分けてくれ、私たちはそれを茹でて食べた。これが私たちの大晦日の食事だった」。
すでに赤軍がナチスを東欧から追いやっていた1945年には、ドイツ軍に占領されていた国々の人々がソ連兵のお祝いに加わるようになっていた。ソ連のパルチザンだったウラジーミル・マンドリクは、スロバキア南部の街リマフスカー・ソボタ近郊で1945年1月1日に起きたナチスとの戦闘の後のことを記録している。「交戦後、12人足らずの小さな集団が歩み寄ってくるのに気付く。それは、私の友人である鉱坑管理局の技師長が私たちのもとへ送ったスロバキア人だった。彼らは3リットルの大瓶2本、それもコニャックではなくキューバのラム酒の入ったものを持って来た。ホテルの館長の所有物だ。さらに50キログラムほどのソーセージもあった。すべて冶金コンビナートの労働者が私たちのために集めたものだった。現地住民も、新年の祝いを手伝うためにわざわざ集まってくれた。私たちが絶え間なく戦っていたことを知っていたからだ。それで有志が新年のご馳走を持ち寄ってくれたわけである。概してスロバキア人は我々に全幅の信頼を寄せていた。パルチザンの中にロシア人がいるなら、自分たちもがむしゃらに戦うべきだと考えていた」。