ポチョムキンに関する10の事実:エカテリーナ2世の愛人、夫(?)そして影の支配者

歴史
ゲオルギー・マナエフ
 この人物は、ロシアの影の支配者とさえ呼ばれた。彼は、ロシア史上最も威勢をふるった女帝エカテリーナ2世のハートを永遠に射止めた。そして、この偉大な帝王の傍らにあってさえ、真に偉大な男であり得た。

1. 最初の成功は財力ではなく知力で

 グリゴリー・ポチョムキン(1739~1791年)は、スモレンスク県(現在は州)の退役少佐の息子として生まれた。父が、未来の公爵が7歳のときに亡くなると、その後は、母親が彼を養育し、モスクワ大学付属ギムナジウムに入学させる。

 大学に入学してから1年後、ポチョムキンは学業の成果でメダルを授与され、12人の特待生の一人に選ばれる。彼は大学は卒業しなかったが、宮廷で注目され、近衛騎兵連隊で勤務し始める。

 

2. 外見と人柄も成功に寄与

 「彼は長身で、均整のとれた体格をし、筋肉が発達して、胸が分厚かった。鷲鼻、高い額、きれいな弓なりの眉、美しい碧眼、優しいばら色の顔色、柔らかい明るい亜麻色の巻き毛、真っ白で見事な歯並び…」

 男盛りの頃のポチョムキンをこう描いているのは、伝記作者で歴史家のワシリー・オガルコフだ。しかしポチョムキンは、単に見た目が良かっただけではなく、真に強靭な心身をもっており、困難を恐れることはなかった。

 「私は、困難は承知しているが、それを克服しようとする人々と一緒に働くのが好きだ」。彼は後にこう言っている。

 「彼は非常に勇敢だ。銃弾の下に踏みとどまり、冷静に命令を出す」。オーストリアの外交官デ・リン伯爵はポチョムキンについて書いている。「彼は、危険が控えているときはいろいろ考えをめぐらせるが、危険の最中では陽気だ。満たされた生活の中では退屈する…。彼は、将軍たちとは神学について、司祭たちとは戦争について語る」

 言うまでもなく、ポチョムキンは女性たちに大いにもてた。そして彼は、そのなかで最も威勢を誇ったエカテリーナ2世(大帝)に恋した。

 

3. エカテリーナ2世と秘密結婚?

 女帝エカテリーナ2世の寵臣のなかで、グリゴリー・ポチョムキンは、女帝に最も身近で、また彼女から尊敬されていた。二人が「秘密結婚」したという根強い噂もある。ロシアの伝統によれば、彼女は、これほどの身分の懸隔のある男を夫にすることはできなかった。彼女は女帝であり、彼は一介の貴族にすぎなかったから。

 なるほど、1770年代半ばには、ポチョムキンは既に司令部の当直将官であり、広大な領地を所有していた。それでも彼は、それらを自分の代で得たのであり、もともと名門で、世襲していたというわけではない。いや、仮に彼が最高の名門貴族だったとしても、皇室の血は彼には流れていなかった。だから、いずれにせよ女帝は、正式に彼と結婚することはできない相談だった。

 しかし、二人は長い間、夫婦のように冬宮で生活していた。ポチョムキンの私室は、女帝の寝室の真上にあった。彼はいつでも一人で、招かれなくても女帝の部屋に入ることができた。手紙の中で彼女は、「わが愛する夫…」と呼びかけ、自分を妻、伴侶と呼んでいた。

 

4. 高い地位にもかかわらず庶民的な習慣を保つ

 「帝国第一の爪かじり」。エカテリーナ2世はグリゴリー・ポチョムキンを悪意なしにこう呼んだものだ。実際、彼は考えごとに耽ると、爪を噛み始める癖があり、どうしてもこの悪習をやめられなかった。国家の№2になった後でさえもそうだった。

 ポチョムキンは、庶民的な食べ物――ピロシキ、お粥、生野菜など――が好物で、いつも部屋に置いていた。私信では、また部下に対しては、口汚く罵ることがしばしばだった。しかし、勤務上必要とあらば、見事に身だしなみを整え、慇懃そのものだった。

 

5. 女帝の「寵臣」でなくなった後も親友、相談相手であり続けた

 1774年、ポチョムキンは、新たに設けられたノヴォロシースク県の総督に任命された。ポチョムキンはもはや、かつてほどエカテリーナに近しい存在ではなく、別離に苦しんだ。しかし、1775年に彼の部下、ピョートル・ザヴァドフスキーをエカテリーナに紹介したのは、ほかならぬポチョムキンだ。ザヴァドフスキーは、女帝の秘書にして寵臣となった。

 ポチョムキンは、国政に関してエカテリーナと連絡を取り続け、依然として、彼女の主要な顧問だった。「そなたに並ぶ者はない」と女帝は彼に書いている。

 ポチョムキンは非常に重要な問題を担当していた。すなわち、彼は黒海北岸の「ノヴォロシア」を統治し、クリミア併合を指揮し、1775年には軍制改革に着手した。

 

6. 軍隊のカツラと三つ編みを廃止

 ポチョムキンは、本物の軍人だから、兵士にとって快適さがいかに重要かをよく知っていた。軍制改革の前には、兵士は、カツラをかぶり、鉄棒を芯にして三つ編みにしていた。ポチョムキンはこう書いている。「髪を編んで、髪粉をふり、三つ編みにする。これがいったい兵隊の仕事だろうか?兵士には従僕はいないのだ!」。彼は、兵士のカツラと三つ編みをやめさせた。もっとも、将校はそれを続けたが。

 また、ポチョムキンは、軍服の変更を命じた。ダブルウールの軍服と、胴体を締め付けるベルトの代わりに(この軍服は見た目は良かったが、非常に不便だった)、彼はシンプルなズボン、上着、ブーツを導入した。洗練された帽子は、実用的なヘルメットに換えられた。

 しかし、改革の柱は、兵士への敬意ということだった。ポチョムキンは、私的な仕事で兵士を利用することを禁じ、人間に対しては人間的に接することの必要性を繰り返し想起させ、兵士の健康に留意した。戦争では弾丸や砲弾よりも不衛生や病気からより多くの兵士が死ぬことを、彼は承知していたからだ。

 

7. ロシア帝国へのクリミア併合

 ノヴォロシアの総督としてポチョムキンは、国境を接するクリミアを併合する計画を立てた。

 ポチョムキンが直接参加した、1774年のオスマン帝国に対する勝利の後、平和条約が結ばれる。この条約では、クリミア・ハン国は、宗主国オスマン帝国から自由であると宣言されていた。しかし、トルコはクリミアからの軍隊の撤退を急がなかった。

 ポチョムキンの指導の下で、ロシアは長い歳月の後に、トルコおよびクリミア住民と、クリミアのロシアへの無血併合について合意することができた。

 1783年、白い絶壁で名高いアク=カヤ山の平らな頂上で、ポチョムキンは、クリミアの貴族と平民のロシア帝国への宣誓式を自ら執り行った。クリミア併合によりポチョムキンは、元帥に昇進した。 

 

8. エカテリーナ2世のクリミア行幸を組織

 1787年、ポチョムキンは、57歳の女帝をクリミアに案内した。これは途方もない規模の大イベントとなった。宮廷全体がエカテリーナとともに出かけた。人数は約3千人!

 帝国の車列は、14台の箱馬車、幌付きの橇124台、予備の橇40台で構成されていた。エカテリーナ自身は、40頭の馬が引き12人の御者が操る馬車に乗っていた。廷臣、召使、および外交使節団の代表が随行していた。 

 女帝の旅(それは冬に始まった)は、ほぼその全行程が、松明か燃える樽で照らされていた。すべての主要な宿駅で、彼女は総督に出迎えられた。

 クリミアでは、神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ2世(オーストリア大公)がエカテリーナに加わった。彼女はクリミアで12日間過ごした。この旅の後、女帝はポチョムキンに対し、ポチョムキン=タヴリーチェスキー公爵の称号を与えた。

 

9. 女帝のために女性のみの「アマゾネス中隊」を創設

 1787年、ポチョムキンは、クリミアに住むギリシア人が妻と一緒にトルコ人と勇敢に戦った様子をエカテリーナに物語った。エカテリーナが疑念を示すと、ポチョムキンは女帝に、これらの女性の勇気の証を見せると約束し、女性戦士100人から成る中隊の創設を命じた。

 この命令は、ギリシャ・バラクラヴァ大隊長が受けた。これは、オスマン帝国の弾圧を逃れたギリシア人で構成される部隊だ。その兵士の妻と娘が「アマゾネス中隊」を創ったわけである。中隊長は、19歳のエレーナ・サランドワ。ロシア帝国最初の女性将校だ。

 アマゾネスは、乗馬、フェンシング、射撃の訓練を集中的に受けた。1787年5月24日、「アマゾネス中隊」は、カドゥキョイ村でエカテリーナ2世を迎えた。アマゾネスたちは、色鮮やかな制服を着て騎乗した。房飾り付きのラズベリー色のベルベット製スカートと緑色の上着。スカートも上着も、縁に金モールが付いていた。頭は白いターバンで覆われ、金色のスパンコールとダチョウの羽で飾られていた。

 女帝はご満悦だった。アマゾネス中隊は、彼女のクリミアの旅にお供し、旅の後で解散した。この中隊は結局、いかなる戦いにも参加しなかった。

 

10. 真の戦士にふさわしく草原に死す

 1791年、52歳のポチョムキンは、何度目かの露土戦争を終え、ヤシ市(現ルーマニア東部)でトルコと平和交渉を行った。ヤシからニコラエフに向かう途中、ポチョムキンは突然、気分が悪くなった。彼は、自分を馬車から降ろすように命じ、草原に横たわって亡くなった。

 エカテリーナ2世は、ポチョムキンの死を嘆き悲しんだ。

 「私の弟子、親友…。偶像と言ってもいい人。ポチョムキン=タヴリーチェスキー公爵が死んだ!」。彼女はこう書いている。遺体は、ヘルソンの聖エカテリーナ大聖堂に葬られた。

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