ロシアの死刑の歴史:誰を、何のために、いかに処刑してきたか

Natalya Nosova
 罪状もいろいろ、方法も、四つ裂きから大量の銃殺にいたるまで多種多様だったが、1997年にロシアは、欧州評議会への加盟にともない、死刑執行のモラトリアム(一時停止)を実施している。それ以前には、ロシアの国家は、犯罪者あるいは国がそうみなす者を処刑してきた。時には極めて「洗練された」やり方で。

 ロシアで最後に死刑が適用されたのは20年以上前の1996年だ。いくつかの情報 によれば、最後に処刑されたのは、偏執的な犯罪者セルゲイ・ゴロフキンで、30人以上の少年のレイプと殺人で告発されている。彼はその年の8月に銃殺刑に処せられた。

 また他の情報によると、最後に処刑されたのは別の犯罪者(匿名)だ。執行は1996年9月だったという。いずれにせよ、欧州評議会に加盟したロシアは、1997年4月、「人権と基本的自由の保護のための条約」の第6議定書に署名。これは、平和時における死刑を禁じている。以来ロシアでは、死刑のモラトリアム(一時停止)が実施されている。

 死刑なしの20年。しかしこれは、何らかの重大な犯罪を犯したか、当局に不都合な人間を抹殺してきた何世紀もの時代に比べれば、束の間にすぎない。では、ロシアの各時代には、誰が何のために処刑されたのか?そして、それはどのように行われたか?

死刑の「外注」

『ボヤールの死刑』

 世界中でそうであったように、ロシアでも古代から、懲罰目的を含む殺害がなされてきた。中世では、法制の実施のかわりに、部族の慣習が行われており、いわゆる「血の復讐」が標準的なものだった。殺人の場合、被害者の家族には殺人者の命を奪う権利があった。

 スラヴ世界最初の法令集「ルースカヤ・プラウダ」(ルーシ法典)は、キエフ大公国時代に成立したものだが、こんな条文がある。

「ある男が別の男を殺した場合はどうか。兄弟が殺されたなら兄弟が復讐する。息子が殺されたなら父が復讐をする。あるいは逆に息子が父の復讐をする。従弟が従兄の復讐をする。あるいは、兄弟の息子が…」

 当時の政権は自ら処刑することは望まなかった。したがって、殺害された人に親類がいない場合は、殺人者が罪を償うために罰金を国庫に支払うだけでよいと述べられている。

 処刑の方法は法的に規定されていなかった。年代記の記述から判断すると、刑吏の残酷さと想像力に左右されたようだ。988年にキリスト教(正教)がウラジーミルにより国教として導入されると、改宗を望まない異教の祭司は生きたまま火炙りにされた。

 キエフ大公、イジャスラフ1世(ウラジーミルの孫)は、キエフを占領した後、70人を、まず目をつぶしてから処刑するよう命じている。殺すか助けるかは武器を持つ者が決めたわけだ。

仮借なき君主たち

ルーシで初めての公開処刑

 モスクワ公国の公たちが次々と新たな領土を併合して力をつけるにしたがい、法律はより体系的になっていき、これは死刑にも反映した。1398年の「ドヴィナ法」には、3回目の窃盗で捕まった泥棒は絞首刑に処すと記されている。こうした処刑は既に中央政府が行っていた。

 ロシアの諺にあるように、「食べているうちに食欲が湧いてくる」。つまり、やっているうちに関心も増すというわけで、時が経つにつれ、いよいよ多くの犯罪が死刑で罰せられるようになっていった。

 イワン3世治下の1497年の法規では既に、「窃盗、強盗、殺人、または恐喝を目的とした悪意ある中傷」は、死刑が見込まれていた。もっとも、イワン3世時代には、単に支配者に不都合な人間も処刑された。たとえば、異端者は生きたまま焼かれた。

玉座のサディスト

『火刑に処されるアヴァクーム』

 死刑と拷問は、イワン3世の孫で、雷帝の異名をとったイワン4世(在位1533~1584年)によって一段と残虐なものとなった。

「我らは、常に自分の僕(しもべ)に自由に褒美を与えるも、死を与えるも自由であった…」。ロシアで初めてツァーリとして即位したこの人物は書いている。彼が「僕」と言うのは、あらゆる臣下のことだ。雷帝の親衛隊「オプリーチニキ」による弾圧の時代には、少なくとも4500人が刑死している。

 通常の斬首と絞首刑に加えて、四つ裂きが広く行われた。犯罪者の四肢と首が切り落とされたわけだが、刑が「軽い」場合は、最初に首をはねた。「重い」場合は、犠牲者を苦しめるため、最後に首を切った。

 くし刺しも行われた。その際の刑吏の特別な「技」は、犠牲者の重要な臓器に触れることなく身体に杭を貫通させ、あまり早く死なないようにすることだった。イワン4世を裏切った者は、水、ワイン、または油で煮るように命じられた。

 雷帝は、犠牲者ごとに特別に苦痛をともなう処刑方法を案出することをためらわなかった。歴史家ウラジーミル・イグナトフは、自著『ロシア・ソ連の歴史における刑吏と死刑』にこう書いている。

「あるとき、ツァーリは、出家した軍司令官ニキータ・カザリノフを火薬樽に縛り付け、爆破するよう命じ、こう言った。修道僧は天使であるから、昇天せねばならぬ、と」

ロマノフ朝時代の処刑

スチェパン・ラージンの死刑

 リューリク朝断絶後の「大動乱(スムータ)」(1598~1613年)の後、ロシアで権力を握ったのはロマノフ家だ。しかし、死刑に関する規定を定め、しかも厳格化する傾向は変わらなかった。1649年の全国会議で制定された「会議法典(1649年法典)」は、その後200年間にわたり、ロシアの主要な法令集となったが、60種類以上の犯罪に対して死刑を科している。

 例えば、死刑についての公式の法規定のなかに、「神の冒涜」の罪は生きながらの火炙りと定められていた。

 「もしも…主なる神を誹謗するならば…その冒涜者は、断罪し火刑に処すべし」

 偽金作り、背教、強姦、殺人、窃盗――これらの犯罪にはすべて死刑が待ち構えていた。一方、軽犯罪は鞭打ちになった。

 当時の官吏、グリゴリー・コトシヒンの証言によると、モスクワには50人のプロの刑吏がいたが、暇を持て余すことはなかった。アレクセイ・ミハイロヴィチ(在位1645~1676)の時代には、コトシヒンの指摘では、7000人が処刑されている。

 アレクセイの息子、ピョートル1世(在位1682-1725)の治世にも血は流された。1698年に銃兵の反乱を鎮圧すると、ピョートルは、この「旧近衛兵」を厳罰に処した。銃兵は、残酷な拷問にかけられた後、10日間にわたりモスクワで処刑された。

 歴史家ニコライ・コストロマノフはこう書いている。「4人は、赤の広場で車輪により腕と足を砕かれ、他の者は首をはねられた。大部分は吊るされた」。5人の銃兵は、ピョートル自らが首をはねた。

死刑に中休み

『銃兵処刑の朝』

 ピョートルの後、いく人かの皇帝は、頻繁かつ大量の死刑執行を引き継いだが、イワン雷帝の「エキゾチックな」時代は、過去のものとなった。18世紀以降の死刑は主に斬首、絞首刑、銃殺によった。

 しかし、ピョートル大帝の娘、エリザヴェータ・ペトローヴナ(在位1741~1762年)が即位すると状況は一変した。この女帝は、死刑には断固反対であり、その治世の間、ただの一度も死刑判決に署名しなかった。

 歴史家エレーナ・マラシノワの指摘によれば、宗教的だったエリザヴェータは、死刑判決の署名で殺人の罪を自分の魂に負うことを嫌った。

「ロシア帝国における死刑のモラトリアム(一時停止)に現れたのは、啓蒙思想の理想ではなく、一方では中世的な宗教性であり、他方では国法すなわち自分の意志であるという専制君主の確信だった」。マラシノワはこう述べる。

 とはいえ、別の状況のもとでは死刑になっただろう犯罪者たちにとって、これはさほどの助けにならなかった。彼らは烙印を押され、鼻孔を引き裂かれ、永遠の徒刑に送られたから。

 にもかかわらず、死刑の20年間のモラトリアムは、権力の「人間化」において大きな役割を果たした。「わずか20年で、支配者と教育を受けたエリートは、極刑が適切か否かについて議論する用意ができていた」。マラシノワは書いている。

 その後、ロマノフ朝のもとでは、主に皇帝または国家権力に反旗を翻した国事犯が処刑された。皇帝を僭称した、大反乱の指導者エメリヤン・プガチョフ、「デカブリストの乱」の5人の指導者、アレクサンドル2世を爆殺した革命家たちなどだ。1826~1905年にロシアで処刑されたのはわずか525人にとどまった。しかし、20世紀はヒューマニズムに終止符を打った。

内戦

鞭打ちになっている犯罪者

 1905~1910年にニコライ2世の政府は、主に絞首台により3700人以上を処刑した。このようにして政府は、帝国を席巻した蜂起、暴動と戦ったわけだ。

 「こうした大量処刑に対して、ロシア社会は激しく反応した…。不幸なロシアよ、もしお前が前途に待ち構えているものが何であるかを知っていたら!」。ウラジーミル・イグナトフは記している。

 実際、1917年に十月革命が勝利し、ボリシェヴィキが権力を掌握すると、暴力は質的に新たなレベルにハネ上がる。レーニンの政府は、1917年10月に死刑を廃止したものの、早くも1918年2月には、極刑を復活させただけでなく、裁判なしで階級上の敵を銃殺することを許可した。

 「敵のエージェント、投機家、凶悪犯、フーリガン、反革命のアジテーター、スパイは、犯罪の現場で銃殺される」。法令「社会主義の祖国は危機に瀕す!」にはこう記されている。別の法令「赤色テロルについて」によれば、多少なりとも反ボリシェヴィキ勢力と関係のある者はすべて射殺されることになっていた。

 「法令『赤色テロルについて』が公布されて以来、歴史上類を見ない恐怖の叙事詩が始まった」とイグナトフは指摘する。ボリシェヴィキ政権は、理想的な新社会を構築しようとし、内戦(1918~1922年)の間に、理想を共有しなかったあらゆる人間を着々と葬っていった。

 この時期に処刑された人数を正確に推定するのは不可能だ。とくに、ボリシェヴィキ政権とその敵対勢力がいずれも、裁判と文書なしで銃殺刑を執行した状況では…。5万から100万超の数字が挙げられている。

死刑のプロフェッショナル

 1920年代後半にある程度「小康状態」が訪れた後、1930年代に入ると、新たな流血の波がソ連を覆った。それは、全権力がヨシフ・スターリンの手に集中されたときだ。最も控えめな推計でも、1930~1953年に78万人以上が処刑された。1935年の法律によると、12歳以上の処刑が許可された。

 この恐るべき時期には、「超刑吏」が出現している。合同国家政治保安部/内務人民委員部(NKVD)/国家保安人民委員部の要員だ。彼らは、来る日も来る日もコンベヤーのように処刑をこなしていった。イワン雷帝時代のファンタジーは既になかった。たいていは、拘束されるに際して月並みに殴打され、尋問では拷問され、その後で銃殺される(絞首刑の場合もあったが)。

ワシリー・ブロヒン、KGBのアーカイブ

 処刑の記録ホルダーで最も目立つ人物の一人が、ワシリー・ブロヒンで、数千人を射殺した(5千人から1万5千人と言われている)。ある同僚の回想によれば、死刑執行に際しブロヒンはNKVDの制服から刑吏らしい格好に着替えたという(革製の前掛けをし、革手袋をはめ、長靴を履いた)。ブロヒンは、秘密警察「KGB」の将官に昇進し、1955年に無事に「畳の上で死んだ」。

「もちろん、我々は意識を失うほどウォッカをあおった。何と言っても、楽な仕事ではなかったから。疲労困憊し、立っているのもやっとという時もしばしばあった。オーデコロンで洗った――腰部まで。そうしないと、血と火薬の匂いは消せなかった」。ブロヒンに指揮されて「仕事」した部下はこう回想している。

 だが、多くの秘密警察要員は、ブロヒンほどついていなかった。絶えざる内部の粛清のせいで、彼ら自身が銃口を向けられる立場に陥ったからだ。

死刑の終焉

アンドレイ・チカチーロ、ソ連で一番有名な連続殺人鬼、1994年2月14日に銃殺された

 1953年のスターリンの死後、死刑の適用頻度ははるかに低くなったが、それでも極刑は、ソ連時代全体を通じて、社会を支配する手段の一つであり続けた。1962~1989年に、ソ連の司法当局は2万4000人以上に死刑判決を言い渡し、うち2500人弱が恩赦を受けている。刑の執行は専ら銃殺によった。

 ソ連崩壊後、新生ロシアでは、死刑の適用範囲ははるかに小規模となった。1991年~1996年の死刑判決は163件にとどまった。その後は、先に述べたように、死刑のモラトリアム(一時停止)が実施された。ロシア政府は、死刑復活の可能性を一貫して否定している。

「専門家は、刑罰の厳格化は、犯罪の根絶、犯罪数の低下にはつながらないと考えている」。ウラジーミル・プーチン大統領は2013年にこう説明した。

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