パイロットのゲーリー・パワーズ(右側)
TASS1960年5月1日、ソ連防空軍はウラル山脈上空で米国のU-2偵察機を撃墜した。パイロットのゲーリー・パワーズは捕虜となり、スパイ行為に対する有罪判決を受けたが、間もなくソ連の諜報員ルドルフ・アベルとの捕虜交換で開放された。
宇宙飛行士ユーリー・ガガーリン
Sputnik1961年4月12日、宇宙船ボストーク1号に乗ったソ連の宇宙飛行士ユーリー・ガガーリンが、宇宙へ行った最初の人間となった。打ち上げから着陸まで、飛行時間は108分だった。
西側の「ファシスト」が東ドイツに侵入するのを防ぐため、ドイツ民主共和国は、モスクワの承認を受け、有名な(悪名高い)ベルリンの壁の建設を始めた。最初の石は1961年8月13日に置かれ、28年間物理的かつイデオロギー的に街を分断した。
1961年、ソ連で最も人気のあった学生お笑い対決番組「KVN」(「愉快な人・利発な人クラブ」)の放送が始まった。同番組は今日でも極めて収益性の高い商業プロジェクトで、ロシアの視聴者を見事に楽しませ続けている。
ノヴォチェルカッスク電気機関車工場
V.Morgunov/Sputnik1962年6月1日、南部の都市ノヴォチェルカッスクで、主に現地の電気機関車工場の労働者から成る5000人以上の群衆が集まり、労働環境の著しい劣悪化に抗議をした。市の当局へ向かう群衆を2度の威嚇射撃で止められなかった警察は、群衆に向かって発砲し、26人が死亡、87人が負傷した。
米国がトルコに弾道ミサイル「ジュピター」を配備した時、ソ連はこれを大きな脅威と見なし、報復として5万人以上の兵士から成る部隊と核兵器を新たな共産主義同盟国のキューバに送り込んだ。ニキータ・フルシチョフとジョン・ケネディーとが土壇場で緊密に連携したことで、1962年10月に核紛争は回避された。
ワレンチナ・テレシコワ
Sputnik 1963年6月16日、ワレンチナ・
詩人エフゲニー・エフトゥシェンコ
Oleg Ivanov/TASSフルシチョフの雪解けの時代と呼ばれる部分的な自由化の時期、新しい世代のソビエト・インテリゲンツィアが文化・政治生活に参加した。彼らは概して共産主義の理想を信じていたが、それでもリベラルで反全体主義的な見方を活発に推進した。
ニキータ・フルシチョフ(左側)とレオニード・ブレジネフ
Sputnik1964年10月14日、高官グループが「高齢と健康上の問題」を理由にニキータ・フルシチョフを政権から排除する動きを組織した。これはフルシチョフが休暇でジョージア(グルジア)にいる時に起こり、彼は抵抗しないことを決めた。レオニード・ブレジネフが新たな共産党総書記に就任した。
1964年10月15日、世界最長の石油パイプラインが開業した。全長約6000キロメートルのドルジバ(「友情」)パイプラインは、ヨーロッパロシアの東部から始まり、ポーランドとドイツ民主共和国で終わっていた。以後ネットワークは改善・拡張され、今日まで利用されている。
アレクセイ・レオーノフ
Sputnik1965年3月18日、ソ連の宇宙飛行士アレクセイ・レオーノフが人類史上初めて宇宙遊泳を行った。ボスホート2号でのミッションで宇宙船から出て、宇宙空間で12分間過ごした。
サモトロール油田
Sergei Lidov/Sputnik1965年、シベリアでサモトロール油田が発見された。面積は1752平方キロメートルで、ソ連では最大、世界でもトップ10に入る大きな油田となった。
チェコスロバキアで自由化と民主化の動きが広がった1968年のいわゆる「プラハの春」に怯えたソビエト指導部は、ワルシャワ条約機構軍をチェコスロバキアに侵攻させた。「ドナウ作戦」には50万人以上の兵士が参加し、モスクワの利益に適う体制転換を余儀なくした。
1969年、ソ連と中国は両国の外交史上最大の紛争を起こした。ソ連が実効支配し中国が主権を主張していたウスリー川のダマンスキー島(珍宝島)を巡る宣戦布告のない戦争によって、両国は数百人の兵士を失った。交戦が終わった後も同島は係争地であり続けたが、1991年に公式に中国に引き渡された。
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