アメリカのナンシー・ペロシ下院議長は、ドナルド・トランプ大統領に対する正式な弾劾調査を支持している。ちなみに、ロシア連邦のボリス・エリツィン初代大統領は、3度にわたる弾劾の試みをしのぎ切った。その経緯と顛末を調べてみた。
1993年における最初の2回の試み
ボリス・エリツィンは、ソ連崩壊前夜の1991年6月12日に、ロシア共和国大統領選挙で大統領に選出された。しかしその後まもなく、1993年3月に、政権内で生じた政治的危機が顕在化する。
ソ連時代から残る政治機関、「人民代議員大会」は、エリツィン大統領と彼の政策に反対し、エリツィンとその経済改革が国を破局に導いたことを示唆した。
弾劾の手続きは、エリツィンがロシア国民に向けてテレビ演説を行った後で開始された。演説の中でエリツィンは、大統領と議会への信頼を問う国民投票が行われるまで、「特別な統治の体制」を導入することが可能だと述べた(国民投票は1993年4月に行われる予定だった )。
「特別な体制」なるものの意味はあまりはっきりしなかったが、その後の出来事により、この疑問は意味をなさなくなった。
人民代議員大会は、ロシア連邦憲法裁判所に、エリツィンの決定は憲法違反であると申し立てた。憲法裁判所の判断により、弾劾決議の採決が可能となった。しかし、議会は十分な弾劾票を集めることができず、全1033票のうち617票にとどまった(成立には689票が必要だった)。
弾劾が失敗したため、議会はエリツィン大統領に対する信任に関して、ロシア政府が国民投票を実施すると発表した。しかしその国民投票で、ロシア国民の大半は大統領への信任を表明する。大統領は、憲法の改正と人民代議員大会の解体に向けて、追い風を受ける形となった。
1993年9月、ロシア連邦の最高会議(人民代議員大会によって選出された常設の議会)は、エリツィンによる人民代議員大会解体に向けての動きを憲法違反と宣言し、事実上のクーデターであるとした。
ついにエリツィンと最高会議の間で武力衝突が起こり、大量の犠牲者が出た。結局のところ、人民代議員大会と最高会議は、時代遅れとなったソ連の政治システムの機関であるとして、解体されてしまった。1993年12月、ロシア国民は、新憲法を国民投票で選んだ。
1999年における弾劾の試み
ボリス・エリツィン大統領を弾劾する3回目の、そして最もよく知られた試みは、1998年にロシア連邦共産党(CPRF)によって始められた。共産党は、エリツィンが大統領任期中に5つの主要な政治的犯罪を犯したと述べ、5つの罪状それぞれで彼を非難した。
弾劾手続きの第一段階は、450人の議員を擁するロシア連邦国家会議(下院)での投票だ。下院議員は、5項目それぞれを採決にかけることになった。しかし、弾劾手続きの継続に必要な300票は、どの項目でも集められなかった。以下が各項目の内容、そして採決の結果だ。
1) ソ連崩壊。共産党はこう述べた。1991年にエリツィンによって承認され実行されたソ連解体の決定により、ロシアおよび他の旧ソ連構成共和国の経済的、軍事的、政治的な力は劇的に低下した。450票のうち239票。
2) 1993年の憲法の危機。共産党の確信するところでは、エリツィンの1993年の行動(エリツィンに対する1回目および2回目の弾劾の試みを引き起こした行動)は違憲であり、事実上のクーデターである。450票のうち263票。
3) チェチェン戦争の勃発。共産党の主張では、1994年12月にチェチェンでの軍事行動を開始させたエリツィンの命令は、多数の犠牲者をもたらした犯罪である。450票のうち283票。
4) 国防の弱体化。共産党によれば、ボリス・エリツィンの行動の多く(国の防衛産業への支出の削減、軍事予算全体の削減など)は、国の軍事システムの破壊を目的としている。450票のうち241票。
5) ロシア国民に対するジェノサイド。共産党の主張によれば、連邦崩壊後の1992年から1998年にかけてロシアの人口が減少し、国全体が貧困状態に陥ったのはエリツィンのせいである。450票のうち238票。
結局、どの罪状の項目も、弾劾手続きを進めるだけの十分な票を集めることはできなかった。しかし、1999年末までに、エリツィンが辞任を計画していることが明らかになり、大晦日の1999年12月31日に、実際に辞任した。その際に、ウラジーミル・プーチンを後継者に指名して、すべての人を驚かせた。