1. サンクトペテルブルクは何もない沼地に建設された
まず言っておかねばならないが、ここは歴史的にけっこう騒がしい場所だった。早くも1300年に、スウェーデンの要塞「Landskrona」がここに建設されている。その後、1611年にも要塞「Nyenskans」が築かれた。その近くには、スウェーデンの町「Nyen」があった(「Nyen」は、ネヴァ川を指すスウェーデン語だ)。
17世紀には、このスウェーデンの町は交易の一大中心地になっていた。海に近く、いくつかの川が合流する地の利があったおかげだ。これが、ロシアとスウェーデンが戦った「大北方戦争」のさなかの1703年に、ピョートル大帝がこの町を奪ったときに、ここに新都市の建設を決めた理由だ。すなわち、スウェーデン領におけるロシアの軍事的プレゼンスをさらに強め、最終的にはロシアのバルト海へのアクセスを確保するのが目的だった。
では、「沼地」という「説」はどこから来たのか?
サンクトペテルブルク建設開始は1703年で、この年が建都記念日となっているが、その2年後の1705年にはまだ、都市の領域の5分の1が湿地帯だった。例えば、巨大な沼地が、後にパーヴェル1世がミハイロフスキー城を築いた場所にあった。また、通行不能なぬかるみが、今では街のナイトライフの中心とされているドゥムスカヤ通りを占めていた。
サンクトペテルブルクは、ヨーロッパの都市建設の専門家たちの助けを借りて建設されている。彼らは、重い建物の地盤を固めるために、同市に土壌を運んで来るよう求めた。
土壌科学者のエレーナ・スハチェワによると、泉と小川の底は砂と瓦礫で満たされ、沼地は排水された。こういった作業がすべて、1780年代まで徐々に実行されていった。この時期に、ネヴァ河岸は花崗岩で覆われることになる。
2. ピョートル大帝がサンクトペテルブルクの礎石を自ら据えたとき、鷲が空に舞い上がった
サンクトペテルブルクの出発点となったペトロパヴロフスク要塞は、1703年5月16日に着工した。これについて根深い噂がある。ピョートル大帝が礎石を自ら据えたとき、彼の頭上を鷲が舞っていたというのだ。
しかし、これはまったくの神話だ。ピョートル大帝の「トラックログ」によると、この日、彼はずっと北の方に、つまりSchlötburgにいたのだ。ここは、1611年にスウェーデンが要塞を築いたその場所である(1703年5月~6月にピョートルが出した法令と手紙はすべてここで署名されている)。
駄目押しに言っておくが、鷲はサンクトペテルブルク周辺には生息しない。
3. サンクトペテルブルクは「厖大な人骨の上に」建設された
伝説によれば、ピョートル大帝は、ロシア各地の何万もの農民にサンクトペテルブルク建設を命じた。彼らは栄養不良で、湿気と寒さに苦しみ、群れをなしてバタバタ斃れ、そのまま沼地に埋められたという。この恐ろしい物語は、「かくして、サンクトペテルブルクは、人骨の上に建てられている」という文句で終わる。
なるほど、建設工事が農民によって行われたのは事実だが、彼らは単にサンクトペテルブルクに来いと命じられたのではなく、委託されたのである。1704年の時点で、4万人の労働者がサンクトペテルブルクに動員されていた。そのほとんどが、国有地の農民または地主の農奴だった。
農民はシフト制で働いた。3ヶ月後には、彼らは帰郷を許された。しかし、月給が1ルーブルという、当時の労働者の標準的な額であったため、彼らの多くが、次の3か月間も建設現場に残った。
1717年以降、農民の労働者はもういなかったが、代わりに年間税が導入された。政府は建設を労働者に委託し、税金を彼らに支払った。
労働者の死亡率について言えば、当時の人々にとっては普通の水準だった。1950年代、ソ連の歴史家は、18世紀の主要な建築現場で発掘調査を実施したが、大量の死亡の証拠は発見されなかった。見つかったのは、動物の骨でいっぱいの汚水溜めだけだ。これは、労働者が多くの肉を含む適切な食事を与えられていたことを証明したにすぎない。
4. ワシリエフスキー島にも運河が掘られるはずだったのに、メーンシコフが予算を着服した
ヤコブ・シュテリン(1709~1785年、ドイツ語表記はJacob von Stäehlin)は、ドイツ生まれで、ロシア科学アカデミーの草創期の会員であり、何人かのロシア皇帝のもとで勤務した。その彼は、『ピョートル大帝をめぐる元祖小話』という本を書いており、そのなかで、こんなことを言っている。
ピョートルは、サンクトペテルブルクのワシリエフスキー島を、道路ではなく運河のある「小アムステルダム」とするよう命令し、その任務を側近アレクサンドル・メーンシコフに委ねた。しかし、狡猾さで悪名高かった彼は、ほとんどの資金を横領したので、運河は船が航行するには狭すぎて、結局、埋め戻された――。
実際には、1723年の時点でさえ、ワシリエフスキー島には運河はなかった。ようやく1727~1730年(つまりピョートル大帝の死後)に4つの運河が出現したが、1767年にエカテリーナ2世の命令で埋め戻されている。
5. 「ペテルブルクは無人の都になるだろう!」
ピョートル大帝は、最初の妻エヴドキア・ロプヒナを愛していなかった。彼女は極めて保守的な女性で、何でもヨーロッパ風にするように見えたピョートルの情熱に共感しなかった。
エヴドキアは反ピョートルの陰謀に加担したとされ、修道院に送られ、無理やり出家させられた。修道院に向かう前に、エヴドキアはサンクトペテルブルクについてこう叫んだという。「この場所は無人になるだろう!」
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だが、エヴドキアは、1698年に修道院に送られたとき、サンクトペテルブルクについて何も知っていたはずはない。それは、同市が建設されることになるスウェーデンの町が征服される5年前のことなのだから。つまり、彼女が述べた「この場所」はまだ、将来首都が築かれる場所でしかなかったのだ。だから、エヴドキアがこの湿地帯が多数の洪水に見舞われることを予言できたはずはない(彼女の「予言」は普通このように解釈される)。
しかし、ピョートルとエヴドキアの不運な息子、皇太子アレクセイもまた、逮捕された1718年に、尋問に際しこの「予言」について語っている。我々の考えでは、アレクセイは単に、彼が耳にした風聞を述べたにすぎない。だが、19世紀後半、ロシアの歴史家セルゲイ・ソロヴィヨフがこの物語を蒸し返したため、以来それは「疑似歴史的事実」となってしまった。