ソ連政権下の教会はどうなった?:無神論時代における様々な「使い道」

歴史
アレクサンドラ・グゼワ
 兵舎、倉庫、さらにはプラネタリウム。共産政権は、閉鎖された教会を何に使ったか?

 反宗教キャンペーンの一環として、ボリシェヴィキ政権は、数万の教会を閉鎖、破壊し、煉瓦と瓦礫の山にした。1917年のロシア革命の以前には、5万4000の教会と1千以上の修道院が活動していた。だが、1980年代にペレストロイカが始まるまでに、その数はそれぞれ6893と15に激減していた。破壊を免れた教会も閉鎖され、他の目的に使用された。

 そうした教会の多くは、文化会館やピオネール(共産党の少年団)のクラブに模様替えされ、なかには刑務所、強制収容所に変えられたものもあった。

倉庫

 破壊されなかった教会のほとんどは、何らかの経済上の必要に応じて使われた。たとえば、様々な工場の倉庫に使用され、穀物、小麦粉、砂糖などがそこに保存された。

 レニングラード包囲戦の間、市民は、ドイツ軍の航空機が高さ100メートル超の聖イサアク大聖堂をランドマーク(目印)として使い、ゆえに爆撃しないことを知っていた。そこで、他の美術館の貴重な展示品がこの聖堂に持ち込まれた。戦前の1930年代には、「フーコーの振り子」がここに吊り下げられたりもしている。

 同じくサンクトペテルブルクの「血の上の救世主教会」(皇帝アレクサンドル2世暗殺の地に建立)はというと、皮肉な話だが、戦争のおかげで解体を免れた。内戦の時期は、ソ連政権はこの教会の解体どころではなかったし、包囲戦の間は死体安置所になり、餓死した市民の遺体が運び込まれたからだ。戦後になると、マールイ劇場(ミハイロフスキー劇場)の舞台装飾の倉庫として下げ渡された。

 モスクワのローマ教皇クリメント(クレメンス)教会は、1943年にレーニン図書館(現ロシア国立図書館)の書庫にされた。ちなみに、ここから本が再度持ち出されたのはようやく2008年のことだ!

兵舎

 クリミア半島南部のフォロス海岸の崖上に建っている復活聖堂は、第二次世界大戦中は、ソ連軍の部隊がここに拠点を置いていたため、ナチスの攻撃により大きな被害を受けた。戦後は、何度か聖堂を撤去しようとする計画があったが、奇跡的に生き残る。ペレストロイカ後、聖堂は勤行のために再開された。

消防車やバスの車庫

 リャザン州カシモフ市のハリストス復活・天使首ミハイル教会では、1930年代に鐘を鳴らすのが禁じられた。その大きな音が地元の学校での勉学を妨げるというのが理由だった。1940年代に鐘楼は完全に取り壊され、教会は消防車の車庫に変貌。その現代風の建築様式からして、それがかつては教会だったとは到底思えない。ソ連時代に繰り返し改築され、結局、バスステーションに変わってしまった。そして現在もそのまま機能している。

工場

 工場の管轄下に移された工場もあった。しかし倉庫として使われただけでなく、そこで生産も行われることがあった。例えば、スーズダリの聖ペテロ・パウロ教会は、パン製造工場として使用。

 コストロマの生神女福音(受胎告知)教会も、似たような運命に見舞われた。やはりパン工場になり、2000年代にやっと正教会に戻された。

 モスクワのデグニノにある「ボリスとグレープ教会」は、1941年に診療所に改装された。1960年代には、ニットウェア工場が教会内に設置。ペレストロイカ期は、眼科のフョードロフ・センターがガレージとして借りていた。今では、建物は正教会に返還済みで、勤行が行われている。

 やはりモスクワの、チェルキゾヴォのハリストス降誕教会は、時期によって様々な形で、つまり製粉所、倉庫、さらには家具店としても使われていた。しかし、1990年代に修復され、再び正教会に返還された。

 ところで、トヴェリ州トルジョーク市の復活修道院には、いまだに縫製工場がある。

プラネタリウム

 ウラジーミル市のニコロ・クレムリョーフスカヤ教会は、最も風変わりな役割を振られた例の一つだろう。

 1962年にプラネタリウムがここに開設された。そして、そのために特別にプラスチック製のドームが作られた。プラネタリウムを新しい建物に移す計画が地方自治体にあるにもかかわらず、いまだに教会内で運営されている。また、このプラネタリウムは、重要な教育機関と見なされている。天文学関連の授業、講義やクイズがここで行われているからだ。

博物館

 それでも多くの共産主義者が、最も名高い教会の文化的、歴史的意義を理解していた。彼らはそれらを博物館として保存してきた。国は、建築物を保護下に置き、修復した。そのため、これらの教会は今日まで良好な状態を保っている。正教会の管理下にあるときよりも良い状態で保存されたケースも珍しくない。

 ソ連政権によるそうした措置の最初のものの一つが、モスクワの最も有名なシンボル、聖ワシリイ大聖堂の博物館化だ。聖堂内に、歴史・建築博物館を開設した。

 伝えられるところによれば、1930年代にソ連当局者は、「赤の広場」の再建プロジェクトの一部として、あるいはまた、聖堂が車両の交通を妨げるという理由で、聖堂撤去の案を数回提起した。しかし、スターリン自身が、聖堂の破壊を許可しなかったという。ところで、聖堂はまだ正式には、国立歴史博物館の一部だ。

 サンクトペテルブルクの目抜き通り、「ネフスキー大通り」にあるカザン聖堂では、1932年に、宗教と無神論の歴史に関する博物館が開館し、独ソ戦の初期には、愛国的なテーマの展覧会が行われた。それは、ロシア史上の名将たちについてのものだった。しかし間もなく、聖堂はドイツ軍の砲撃を受け、丸屋根に穴が開き、天井がいくつか崩れ落ちた。そのため、聖堂博物館は完全に閉館を余儀なくされた。

刑務所

 多くの大修道院では、革命の前にも、囚人がいた(その大部分は政治犯だ)。これはしばしば、修道院が僻遠の地にあり、しかも要塞の機能を兼ねていたので、容易に人を寄せ付けないためだった。

 ソ連政府もまた、刑務所や収容所にとっての、修道院のこうした「便利さ」を活用する。教会や修道院に板寝床を取り付け、何千、何万という囚人を投獄した。

 最も有名な例は、白海のソロヴェツキー修道院だ。16世紀のイワン雷帝の時代から19世紀末までに、ここには計500人ほどの囚人がいた。だが、ソ連時代に強制収容所および刑務所が置かれた時期になると、囚人は実に約20万人を数えた。

 ソロヴェツキー修道院のほか、ノヴォスパッスキー修道院とスパソ・アンドロニコフ修道院も、強制収容所に変わった。

 前者には、ソ連の秘密警察「NKVD」の経済部門と女性を対象とした矯正キャンプが置かれ、後者には、ホームレスの収容所と国防人民委員部(陸軍省に相当)の支部が設けられた。