GAZ-13「チャイカ」。 「ゴーリキ・クラシック・グム」ヴィンテージカーのラリー。ヴァシリエフスキー・スプスク、モスクワ。
エカテリーナ・チェスノコワ撮影/SputnikGAZ-13とGAZ-14はまとめて「チャイカ」(「かもめ」の意)と呼ばれ、しばしば数少ないソビエト製高級車の中でも最も美しい車とされた。
GAZ-13「チャイカ」。ソ連の自動車工業の50周年記念日にささげられた(1924-1974)に「自動車工業ー50周年」という展示会にて。1974年。
U.ドヴォリャンニコフ撮影/Sputnik「チャイカ」と名付けられたのは当てずっぽうではない。この名称は、同車の特別な地位を強調するために選ばれた。1959年にGAZ-13が現れるまで、ゴーリキー自動車工場(GAZ)はすでに量産車「ヴォルガ」(ロシアを流れる欧州最長の河川の名称)の生産を始めていた。かもめが常に川の上を飛行するように、GAZ-13も高級さの点で常に「ヴォルガ」を上回ることになるだろうと同車の開発者らは意気込んでいたのだ。
Gaz-13。
ニコライ・ドボロヴォリスキー撮影/SputnikGAZ-13はパッカード「パトリシアン」とパッカード「カリビアン」に触発されて生まれた。しかし外見の類似とは裏腹に、ソビエトの車は米国の車の単なるコピーではなかった。
歩行者が「チャイカ」を観察している。
Getty Images「チャイカ」のバリエーションの一つ、「黒医者」として知られたモデルは、ロシア政府の要人やその家族を搬送する救急車として用いられた。しかしこの黒い車は、むしろ霊柩車に見えた。
モスクワ州、ソ連。ソビエト連邦共産党中央委員会書記長レオニード・ブレジネフと「チャイカ」。
ウラジーミル・マサエリャン撮影/TASS一般のソビエト市民が「チャイカ」を購入することはできなかった。一般向けには販売されなかったからだ。これは中級以上の役人向けの高級車だった。それでも、この有名な車の内装がどうなっているのか、一般の人々でも見る機会はあった。退役した「チャイカ」はしばしば結婚登録所に寄贈され、新婚夫婦に大人気だった。
ゴーリキー自動車工場によって生産された新しいGAZ-14。
ウラジーミル・ヴォイテンコ撮影/TASS政治家のほか、有名人(芸術家、作家、スポーツ選手など)にも「チャイカ」が支給された。例えば、白い「チャイカ」が世界初の女性宇宙飛行士ワレンチナ・テレシコワに贈与された。彼女の宇宙でのコールサインは奇しくも「チャイカ」であり、これは象徴的な出来事だった。
モスクワ、ソ連。第4回国際映画フェスティバル。聖ワシリイ大聖堂付近で撮影されたイタリアの女優ソフィア・ローレンとソ連の俳優セルゴ・ザカリアゼ。
ヴァレリー・ゲンデ=ロテ撮影/TASSロシア正教会のトップ、総主教ピーメンが所有していた「チャイカ」は、かのピエール・カルダンがデザインを手掛けたものだった。カルダンは1979年にファッション展覧会に参加するためにモスクワを訪問し、総主教と面会した。ピーメンの車に感嘆したカルダンは、彼ならではのアイスクリーム色を使って内装をデザインし直すことを申し出たのだった。
「チャイカ」のダッシュボード。
アントン・デニソフ撮影/Sputnik1977年に発売されたGAZ-14にはオープンカー版があり、赤の広場での戦勝記念パレードで活躍した。
1986年6 月1日。兵科総元帥ウラジーミル・トルブコと パレード指揮者S.ウルステモフ。
ウラジーミル・ドツェンコ、エフゲニー・ペトリチュク撮影/TASS「チャイカ」は外国に駐在するソビエト大使らの公用車となった。さらに、モスクワに駐在する外国の外交官は概して欧米製の車を好む傾向があったが、「チャイカ」を運転する者もかなりいた。
1988年、ミハイル・ゴルバチョフの「反特権階級」運動のさい、ソビエトの役人は「チャイカ」からより権威の低い「ヴォルガ」に乗り換えるよう命じられた。ゴルバチョフの意図は、ソビエトの政治エリートが、今後高級品を所持せず、一般の人々に近付く覚悟があることを示すことだった。
7人乗りのGAZ-14(1977)。
V.ヴェセロフスキー撮影/Sputnik「反特権階級」運動は度を越した。GAZ-14が生産終了となっただけでなく、同車の生産技術に関する文書や設備もすべて破壊されてしまったのだ。このため、1990年代に浮上した「チャイカ」再生産案は完全な失敗に終わってしまった。
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