ハバロフスク近郊のヴャツコエは、アムール川沿岸の小さな町で、ロシアの極東と中国東北部(満州)の境に位置する。ここで、あるソ連軍大尉に息子が生まれ、ユーリーと名付けられた。この男児にはロシア名がつけられたものの、その母も父も民族的には朝鮮人であった。
ただし、現在の北朝鮮国民は、次のように教え込まれる。すなわち、未来の北朝鮮指導者、金日成の長男は、1942年2月に、朝鮮半島最高峰の白頭山の丸太小屋で生まれ、ここで父はパルチザン部隊を指揮していた、と。
だが実際には、1942年2月の時点では、金日成の運命は、故郷の朝鮮よりも異郷のロシアとはるかに密接に結びついていた。
ソ連に逃れたパルチザン
北朝鮮の将来の独裁者は、ソ連における人生行路にいかに踏み出したか。それは、朝鮮半島を当時併合、統治していた日本の軍隊への朝鮮人パルチザンの襲撃から始まった。日本の植民地政策は、半島の地元住民の抵抗を引き起こし、住民のなかには、支配者と戦うためにゲリラ部隊を編成した者もいた。
北朝鮮の将来の建国者、金日成もまた、パルチザン部隊に身を投じたが、1930年代半ばの時点では、この若い朝鮮人戦士はほとんど無名だった。
しかし、1937年6月、金日成の部隊が朝鮮咸鏡南道の普天堡(ポチョンボ)の町に夜襲をかけ、この事件をきっかけとして、25歳だった金日成はかなり知られるようになった。すなわち、若い金日成のパルチザン部隊は、日満国境となっていた鴨緑江を渡河し、普天堡のいくつかの拠点を襲撃。日本の警官を殺害し、囚人を解放し、事務所や学校をなどを焼き打ちした。
普天堡の戦いにより、金日成は、日本統治下の朝鮮では最も危険なお尋ね者の一人となった。こうして日本当局は、金日成の掃討に本腰を入れる。
日本当局は、これを最後にパルチザンを根絶すべく、満州に掃討部隊を派遣。その結果、金日成の仲間の多くが死に、パルチザン勢力は見る見る弱体化していった。1940年末には、金日成にとって状況は危機的となり、ついに彼は、部隊を小グループに分散させて、アムール川を渡り、ソ連領に身を隠す決断をする。
ソ連での静かな生活
当時は、ソ連領内へのパルチザンの逃亡は、珍しいことではなかった。ソ連軍は通常、これらの逃亡者を、まず検査、捜査のために隔離した。その後でパルチザンたちは、それぞれの希望、好みで仕事を見つけた。
「ソ連軍に入る者もいれば、ソ連国籍を取る者もいれば、農民あるいは、それよりは少数だが労働者になる者もいた」。歴史家アンドレイ・ラニコフは、北朝鮮に関する自著にこう記している。
金日成は、ソ連国境警備隊のパルチザン収容施設で数か月過ごした。その後、金日成とその部隊は、ソ連極東戦線傘下の第88特別旅団に編入され、ハバロフスク近郊の野営地で、ソ連軍将校の指導の下で、2年間にわたり訓練・教育を受ける。
「金日成は、10年間にわたって危険なパルチザン生活を送り、あちこち彷徨い、飢餓と疲労に苦しんできたが、その後で初めて休息し、身の安全を感じることができたろう」とラニコフは書いている。
まさにここ、ハバロフスク近郊で、金日成の同志で妻の金正淑(キム・ジョンスク)が、金日成の息子を出産した。この男児は、出生時には、ユーリイ・イルセノヴィチ・キムというロシア名だった。彼は後に、別名、金正日(キム・ジョンイル)を名乗って、父の後継者となり、北朝鮮の核開発を推進して、世界的に知られることになる。
ソ連軍大尉
さて、先に述べたように、日本軍の掃討を逃れて越境した金日成の パルチザン部隊を、ソ連軍は、1942年夏に第88特別旅団に編入。旅団には、中国人の2個大隊と朝鮮人の1個大隊が含まれていた。
中国人の周保中が旅団長に任命されたが、周保中は金日成を既にパルチザン活動を通じて知っていた。周の推薦により、金日成は朝鮮大隊の大隊長に任命される。彼は、労農赤軍(ソ連陸軍)大尉の階級を与えられる。
朝鮮人を指導したロシア人教官によると、「赤軍のキム大尉は良い男だ。親しみやすく、開放的で陽気だ」。こうコメルサント紙に当時の状況を話すのはウラジーミル・トルスチコフ。北朝鮮・平壌のソ連情報局の元代表で、金日成自身をはじめ、朝鮮半島の重大事件に関わった人物多数と直接会っている。
第88特別旅団は、日本との戦争には参加せず、日本の降伏後は解散させられた。戦争の全期間を通じ、金日成は、前線のはるか後方、ハバロフスク地方の森林地帯で過ごした。
「いくつかの回想録を見ると、当時の金日成は、自分の将来についてかなりはっきりした見通しをもっていた。軍隊勤務か、軍事アカデミーか、連隊か師団の指揮官か。もしその後の歴史がちょっと別の展開をしていれば、モスクワのどこかで年老いた、ソ連軍のキム・イルソン退役大佐あるいは少将が暮らしていて、息子のユーリーはモスクワの何かの研究所で働いていたかもしれない」。歴史家ラニコフはこう書いている。
だが、ソ連の軍幹部には、この朝鮮人パルチザンについて独自の計画があった。彼は、ソ連軍と平壌の住民との間の連絡役を割り振られたのである。
「ソ連軍が占領した最大の都市は平壌であり、一方、第88特別旅団で最も階級が高かったのは金日成だった。だから、彼が平壌守備隊司令官の顧問に任命されたことは驚くに当たらない」。ラニコフはこう述べている。
1945年10月14日、平壌で開かれた「ソ連解放軍歓迎平壌市民大会」でイワン・チスチャコフ少将は、朝鮮民衆に金日成を「国民的英雄」、「勇名をはせたパルチザン指導者」として紹介した。一方、金日成は、解放者、ソ連軍への支持を演説で表明する。まさにこの瞬間から、一介のソ連軍大尉が「偉大なる首領」金日成となる、その変貌が始まったのだった。
その後、北朝鮮の権力は、この独裁者の完全に掌握するところとなり、この国は世界で最も孤立した場所となった。
「私はしばしば金日成と公式行事で会った」。平壌のソ連情報局元代表、ウラジーミル・トルスチコフは、金日成との出会いを振り返る。
「金日成は、あまり上手くはなかったが、ロシア語を話した。私は、彼がしばしば二つの箴言を繰り返し口にしたことを覚えている。『民衆というものは、天に向かってするように、何かを崇拝しなければならない』。『もし、我々の頭上に天が崩れ落ちてきても、出口は見つかる』」。どうやら、北朝鮮の政権は、今日にいたるまで、建国者の後者の箴言のほうを盲信し続けているようだ。