アレクサンドル・ゲルツェン パリに死す

アレクサンドル・ゲルツェン、ソ連の切手。

アレクサンドル・ゲルツェン、ソ連の切手。

1870年の今日、1月21日(ユリウス暦1月9日)に、ロシアの思想家、作家で、ロシアの「社会主義の父」と称されるアレクサンドル・ゲルツェンが、パリで肺炎のために亡くなった。

ゲルツェンは、ナポレオンのロシア遠征の年、1812年に、モスクワで、富裕な地主のイワン・ヤコヴレフの私生児として生まれた。彼の母は、ドイツのシュトゥットガルト出身の、下級官吏の娘で16歳だった。ゲルツェンという苗字は、ドイツ語で心臓を意味するherzからとられたもの。

「雀が丘」での誓い 

ロシア最初の革命家であるデカブリストの反乱が1825年に起きると、当時14歳だったゲルツェンは、生涯の親友となるニコライ・オガリョフとともに雀が丘で、デカブリストの遺志を継ぎ、農奴制と専制との戦いに生涯を捧げることを誓い、これを貫いた。

1829年、モスクワ大学物理数学科に入学し、サン・シモン、フーリエなどの社会主義思想に傾倒する。

34年、反政府的活動のかどで逮捕、流刑、47年には父の死のをきっかけに亡命する。ときあたかも、欧州の革命の波の前夜であった。

西欧への幻滅とロシア独自の道 

彼は、ロシアの西欧派に属すると目されていたが、西欧の現実と革命の挫折を目の当たりにして幻滅し、ロシア独自の発展の道を探る。ロシアの農村共同体を基礎としての、彼の社会主義理論は、ナロードニキ主義のさきがけとなった。

52年に彼は、ロンドンに移住し、厖大な自伝 『過去と思索』 (金子幸彦、長縄光男による邦訳が筑摩書房から出ている)の執筆を始める。幼年時代からの成長の過程が実に生き生きと描かれており、また、ゲルツェンが交流した、同時代のロシアとヨーロッパの著名な人物がたくさん登場する。

また、「自由ロシア出版所」 を開設し、新聞「コロコル(鐘)」など、ロシア向けの出版活動も開始した。彼の著作と出版物は、革命派から保守派にいたるまでの注目を浴びつづけた。