防護巡洋艦「アヴローラ」(オーロラ)は、ロシアのもっとも伝説的な軍艦で、主に1917年の十月社会主義革命が連想される。つまり、ボリシェヴィキの兵士と水兵に対し、冬宮襲撃の合図となる砲撃を行い、それによりロシアの新時代を開いたと信じられている(冬宮には、二月革命後に成立した臨時政府の本部が置かれていた)。もっとも、「号砲を撃った」という点には疑問の余地もあるのだが。いずれにせよ、この大騒乱の前にも、アヴローラ号は多くの困難な時に耐え、悲劇から生き残ってきた。
巡洋艦の建造は1897年に始まり、6年後に竣工。皇帝ニコライ2世自ら、ローマ神話の曙の女神にちなみ、アヴローラと命名した。
防護巡洋艦「アヴローラ」の最初の主な試練、戦闘は、日露戦争におけるものだった。1904年10月、バルト海に移動し、第二太平洋艦隊(バルチック艦隊)に編入されて、日本海軍と戦うべく、極東に向けて長い航海の途に就いた。
その途上、バルチック艦隊はすんでのところで大英帝国との戦争に入るところだった。濃霧の夜、バルチック艦隊は、英国近海で操業していた地元のトロール漁船に砲火を浴びせた。漁船を日本の水雷艇と誤認したのである(ドッガーバンク事件)。
事件は平和的に解決されたが、アヴローラ号は、無傷ではなかった。英国の漁船と同様に、このロシア巡洋艦も暗闇の中で誤認され、友軍の艦艇の砲撃を浴び、損傷を被った。しかも、乗船していた正教司祭が重傷を負い、間もなく死亡した。
しかしアヴローラ号は、その艦歴の大半においては実に幸運な船だった。とくに惨敗に終わった日本海海戦では、日本の連合艦隊と戦ったが、奇跡的に生き残った。18発の敵弾を被りつつも、中立港のマニラに逃れ、そこで抑留された。
1910年、アヴローラ号は、イタリアのメッシーナ市を訪れた。1908年のイタリアのメッシーナ地震の後、救助活動に参加したロシア水兵へのメダルを受け取るためだった。ところがその際、夜間に同市で火災が発生するや、アヴローラ号の水兵が最初に駆けつけ、救助にあたった。この行為のために彼らはまた、数千個のオレンジとレモンを与えられた。
第一次世界大戦中、アヴローラ号は主にパトロールと陸上部隊の支援を行っていた。敵の艦船や航空機と遭遇したが、やはり生き残った。
アヴローラ号の艦歴のハイライトは、1917年の十月社会主義革命におけるボリシェヴィキの冬宮襲撃と臨時政府打倒だ。この艦の砲撃が、襲撃開始を告げる合図となった。もっとも、砲撃したのは、攻撃がすでに始まった後だったと主張する者もいる。いずれにせよ、以来アヴローラ号はソ連の主なシンボルの1つとして讃えられてきた。
ロシアの内戦が1922年に終わると、アヴローラ号は練習艦となった。しかし、独ソ戦(大祖国戦争)が勃発すると、退役していた艦は、レニングラード(現サンクトペテルブルク)の対空防衛に組み込まれ、再び軍務に就く。
1945年、第二次世界大戦終結後、アヴローラ号はネヴァ河畔に恒久的な居住地を与えられ、試練の日々は終わりを告げた。以来、艦は博物館となり、レニングラード(サンクトペテルブルク)のシンボルの1つであり続けている。
しかし、アヴローラ号にまつわる最後のエピソードの1つは、この古い船に、その「革命的な」過去を想い起こさせた。1975年、ワレリー・サブリン海軍少佐とその追随者は、リガで哨戒艦艇「ストロジェヴォイ」を乗っ取り、新たな革命を起こすために、レニングラードに向かった。サブリン少佐は、ロシア革命の象徴、アヴローラ号の横に、ストロジェヴォイを錨泊させる計画だった。だが、ソ連バルチック艦隊の艦船が直ちに追尾し、ストロジェヴォイを攻撃。サブリンらは間もなく逮捕されたため、彼の企図は実現しなかった。