1990年代半ばは、ロシア政治の激動の時代だった。1993年10月、ボリス・エリツィン大統領とロシア連邦最高会議(国会)の対立が限界を超え、ついにモスクワで騒乱が起きた。その2ヵ月後には、ポピュリストのウラジーミル・ジリノフスキー率いる自由民主党が、下院選挙で実に23%の票を獲得。もう何でもあり、という状況に見えた。
若手政治家コンスタンチン・カラチョーフ(現在は54歳)――「ビール愛好者党」の未来の指導者――は、1993年12月には失意のどん底にあった。下院選に立候補しては見たが、落選。「憂さ晴らしにビールを飲むことにしたんだ」。彼はニュースサイト「Lenta.ru」に、当時のことを振り返りつつ語った。
コンスタンチン・カラチョーフ、1995年
セルゲイ・メテリツァ/TASSカラチョーフが、ビールを買うために行列に並んでいると、友人のドミトリー・シェスタコフにばったり会った。彼も下院選に出て落選していた。
2人はカラチョーフのアパートでビールを飲みながら、政治談議をした。「ロシアにはまともな政党がないという結論に我々は達した」とカラチョーフは回想する。「ビール好きの党なら投票するぜ、とドミトリーは言った」
もしかすると、二人は飲みすぎたのかもしれない。が、カラチョーフはさらにビールをあおりつつ、「ビール愛好者党」(BLP)がロシアで創設されたという“ニュース”をすべての通信社に伝えた(そう、1990年代には政党の創設は簡単だった)。
翌日、彼はニュースに登場し、記者会見を開いて宣言した。然り、それは本当であると。
「マジメな政治をおちょくって、『15分で有名に』なりたかったんだ」。彼は当時の気持ちをこう語る(編集部注――アメリカのポップアートの旗手、アンディ・ウォーホルは、「将来は、誰もが15分間で世界的に有名になれるだろう」と言ったことがある)。
「ビール愛好者党」(BLP)は、1993年12月に正式に結党。とにかく名前が滑稽で、おまけにアルコール飲料を名前に冠しているのに、この党は、真面目な政治課題を掲げている、あるいは少なくとも掲げていると主張していた。そして彼らが門戸を開いていたのは、ビール好きに対してだけではなかった。
「わが党は人権を守る。ビールを飲む権利と、ビールを飲まない権利を含めて」と綱領にはうたわれている。政治面では、BLPはかなりリベラルであり、あらゆる種類の政治的自由を支持し、「いかなる権威主義をも否定する」という立場だった。
「私たちは政府に反対していた。政府がウォッカ愛好家によって支配されていたからだ。ウォッカ好きというのはもちろんエリツィンのこと」。カラチョーフは当時の自分の「政見」についてこう語る。「ウォッカは攻撃性を生んで、戦争につながるが、ビールは相互理解と平和と善の象徴だ」
とはいえ、こうした考え自体は、とくに新しいものではなかった。ソ連作家イリヤ・エレンブルクが『回想録』に書いていることだが、文豪レフ・トルストイは、労働者の飲み物を、ウォッカではなくビールに替えられたら、と考えていた。にもかかわらず、トルストイもカラチョーフも、そういう代替を促すことには成功しなかった。
ビールのフェスティバル、ヤロスラヴリ、1995年
セルゲイ・メテリツァ/TASS1995年の下院選挙に向けて、BLPは選挙運動費として30万ドルを集めた。さらに、多数の有名無名の人々を運動に引き込んだ。歌手ボリス・モイセーエフ、チェス世界チャンピオン(1957~1958年)のワシリー・スミスロフ、物理学者ボリス・ラウシェンバフなどなど。公式データによると、BLPの党員はロシア全国で5万人いた。
メンバーたちがBLPにさまざまな選択肢を提供してくれて、誇りに思うと、カラチョーフは言った。非飲酒者の派閥、ヴォーブラの派閥(ヴォーブラはコイ科の川魚。これの干物をつまみに酒を飲むのが好きな人の派閥ということ)、等々。さらには、「満たされない女性たちの派閥」もあった。政府に「満たされない」という意味だ。表向きにはだが…。
選挙キャンペーンがビールと大いに関係していたのは驚くにあたらない。「ビール愛好者たち」は、ビール1ケースをエリツィンに送った。ミハイル・ゴルバチョフ元ソ連大統領には、ビールが旧ソビエト共和国を再統合する最良の手段であると、説得しようと試みた。彼らの奇妙なキャンペーンのビデオでは、ウォッカ好きを嘲笑し、平和を主張していた――もちろん、ビールを通じての。
カラチョーフとその党は、大した成功は収めなかった。1995年の下院選挙では、約43万票を得たにとどまった。これは、ロシアにような大きな国ではわずかで、0.62%の得票率にすぎなかった。
その結果、「ビール愛好者たち」は、下院に議席を得られなかった。「BLPの優雅なジョーカーたちは、政治オークションに参加しようとしたが徒労に終わった」。コメルサント紙はこう書いている。
「我々のキャンペーンは、メッセージ伝達の点ではあまり成功していなかった」とカラチョーフも認める。いちばん重大なミスとして彼は、組織性の欠如を挙げる。「我々の資金は、地域にバラまかれ、仲間たちはただそれを蕩尽し、飲んだだけだった」。ああ、恥ずかしや…。
党は長続きしなかった。1998年には、カラチョーフはプロジェクトを終了。彼はマジメな(つまりアルコールと無関係な)政治活動に戻り、ウラジーミル・プーチン現大統領の与党「統一ロシア」に協力するようになる。
だが今日、彼は少しノスタルジックに見える。「90年代のほうが政治が真摯だったかどうかは分からないが、もっと面白かったのは確かだ」
ロシア・ビヨンドのニュースレター
の配信を申し込む
今週のベストストーリーを直接受信します。