濃密なジグリー・ビール

2012年5月1日、メドベージェフ元大統領(左)とプーチン元首相は「ジグリー」バーで「ジグリー」ビールを飲んでいる=タス通信撮影

2012年5月1日、メドベージェフ元大統領(左)とプーチン元首相は「ジグリー」バーで「ジグリー」ビールを飲んでいる=タス通信撮影

ロシアでもっとも人気の高いビールは、ほぼ100年間変わっていない。それはボルガ河畔のサマーラ市でつくられる「ジグリー」ビール。ソ連のイメージが強いビールだが、世界のクラブ好きの間で人気の、メキシコの「ドス・エキス」や「ネグラ・モデロ」と同種である。

 ジグリー醸造所は、1881年にサマラ市で開業した。醸造所を創設したのは、ハンガリー・ドイツ系のオーストリア人貴族、アルフレート・ヨーゼフ・マ リー・リッター・フォン・ヴァカーノ。フォン・ヴァカーノは元々あったブレエフ醸造所とその土地の賃貸借契約を結び、ジグリー醸造所を創業すると、優れたビール醸造者、そして才能豊かな商人としての頭角を現した。ジグリー醸造所は発電機、当時はめずらしかった電気式冷蔵庫、鉄道と船、厳格な衛生基準などによって、数年後には西ヨーロッパの醸造所と肩を並べるほどの、ロシア最高のビール醸造所へと変わった。

 

オーストリア人貴族がヴォルガ河畔で開業 

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 フォン・ヴァカーノは、実用主義的な商人でありながら、センチメンタルでロマンティックだった。ロシアのロビン・フッドであるステパン・ラージンにゆかりのある、ボルガ河畔の美しいジグリー高原の断崖にちなんで工場の名前をつけた。

 醸造所は複数種のビールを醸造していたが、ウィーン・ラガーの人気が特に高かった。これは現在のヨーロッパで、ほぼ忘れられている種類である。ウィーン・ラガーは、有名なピルスナー(淡色麦芽を使った下面発酵ビール)に似ているが、濃密、飽和色(琥珀色から赤色まで)、ホップ苦味という特徴が、よりはっきりと出ている。19世紀末になると、フォン・ヴァカーノのビールは裕福なボルガ川流域のレストランだけでなく、外国にも納入されるようになっていた。醸造基準に合った質の高い原料と、当時はおいしくて有名だったボルガ川の水が、ビールの見事な味をつくりだしていた。

 

低温殺菌されていない生きたビール 

 世紀の変わり目にロシアの市民権を獲得していたフォン・ヴァカーノの事業を、ソ連政府はつぶすことができなかった。ボリシェヴィキは醸造所を没収し、財産のなくなったフォン・ヴァカーノをオーストリアに送還したが、醸造所の文化はそのまま残した。スターリン内閣のミコヤン商工人民委員は1930年代初め、醸造所を訪問して「ウィーン」の味と作用を認めたが、ブルジョア的な名称を変えるよう指示。これにしたがって、醸造所の名前がそのままビールにつけら れた。このようにして生まれたのがジグリー・ビール。

ソ連時代の「ジグリー」ビールのラベル=Lori/Legion Media撮影

 ジグリー・ビールの醸造法はすぐに国の基準となり、同じ名称のビールがソ連国内700ヶ所以上の拠点で製造された。旧ソ連地域の数百ヶ所の工場でいまだにジグリー・ビールが製造されているが、本物のジグリー・ビールが醸造されているのは、ジグリー醸造所のみ。2つの事実が本物の質を物語っている。まず、 モスクワでは数えるほどのレストランでしか提供されておらず、もともとお手頃価格の種類であるにもかかわらず、イギリスから輸入されるエールと同じ価格で提供されている。次に、本物のジグリー・ビールは低温殺菌されていない、生きたビールであるため、瓶での輸送に耐えることができない。

 

メキシコにも伝わる 

 さて、なぜメキシコと関係あるのだろうか。ちょうどフォン・ヴァカーノがロシアからオーストリアへ帰国した前後、オーストリアの醸造者の一部は、飢えていたヨーロッパからメキシコに移住し、そこでウィーン・ラガーの製造を始めた。これが後の「ドス・エキス」と「ネグラ・モデロ」である。この種類がオーストリアで20世紀に消滅してしまったことは悲しい。ウィーン・ラガーを発明した醸造所ですら、現在はピルスナーを製造している。残っているのはロシアとメキシコのみ。ロシア人は、メキシコのウィーン・ラガーよりも、ジグリー・ビールの方がウィーン・ラガーらしいと考えている。アメリカの甘いホップではなく、ヨーロッパの苦いホップからつくられるのが、ジグリー・ビールなのだ。

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