1920年代ロシアで性革命がいかに爆発(そして瓦解)したか

歴史
ゲオルギー・マナエフ
 異性装パーティー、性の自由を支持するウラジーミル・レーニン、トラムに乗ったヌードのアナーキスト、救世主キリスト大聖堂の近くのヌード・ビーチ…… ソビエト国家が誕生して間もない頃のロシア人の生活はこのようなものだった。さて、何の問題があろうか?

 『「さらば羞恥心!」と書かれたアームバンドを身につけた素っ裸の連中が最近モスクワに現れた。トラムに乗り込む集団もいた。トラムは停車し、人々は憤慨した。」有名なロシア人作家のミハイル・ブルガーコフは1924年の日記に書いている。その15年前には、女性が膝丈の服を着て出歩くなど考えも及ばなかった。だがこうした変化は一夜にして起こったのだろうか。

 革命前のロシア社会、特に大都市の雰囲気は禁欲的ではなかった。19世紀末に生まれたある無名の兵士は、こう回想している。「10歳にして、私はすでにあらゆる淫らな行為に晒されていた(…)。ポルノ写真もそう珍しいものではなかった。』

 女装・男装パーティーやゲイのパーティーは芸術界では一般的なもので、貴族の中にもゲイであることが知られた者が若干いた。中には、しばしば複数のパートナーが参加するパーティー生活を通常の娯楽としている人々もいた。だが男性の同性愛は犯罪であった…… ボリシェヴィキが登場するまでは。

「一杯の水」は偽説?

 イデオロギーの観点から言えば、性の解放は正教会や旧習全般との闘いにおける重要な武器の一つだった。初期のボリシェヴィキにおいて、新しい家族秩序のプロパガンダの普及に貢献したのは、ロシア人革命家でのちに外交官となるアレクサンドラ・コロンタイだった。しばしばコロンタイの言葉として引かれる「一杯の水」という有名な説がある。曰く、「愛(引いてはセックス)は誰にとっても一杯の水を得るほど簡単に手に入るべきだ。」しかしこれはコロンタイの考えを極度に単純化したものにすぎない。

 コロンタイは「新女性」という概念を宣伝した。「新女性」とは、結婚や家事、育児の抑圧から解放された女性のことを指す。女性が抱える面倒はすべて社会と国家が引き受けるべきだというのがプロパガンダの趣旨だ。社会と国家が子供の教育(性教育を含む)を引き受け、全国規模の外食産業の確立、住居の集団化、育児支援の充実といった課題の実現に向けて行動を促す。コロンタイの考えでは愛も解放されるべきであった。民事婚が伝統的な結婚に取って代わるとされた。

 明らかに、ボリシェヴィキの家族政策は最先端にあった。西側諸国では数十年先でも見られなかったものだろう。さて、こうして個々人が責任を持つ仕組みが作られたものの、包括的な自由化は、都市化が進んでいなかった1920年代ロシアの農業社会には全く手に負えないものだった。

新世界の暗い隅

 「結婚解消に関する法令」や「民事婚、子供、所有に関する法令」というのが、ソビエト政権が1918年に出した最初期の法令に含まれている。教会婚は廃止され、民事婚が導入された。離婚は選択の自由となった。中絶は合法化された。これらすべてが家族関係や性関係の完全な解放を含意していた。これが近代ロシア史上最もふしだらな時代の到来を告げた。

 ヌーディズムに対する態度の緩みが、当時の空気を如実に物語っている。救世主キリスト大聖堂に近いモスクワ川の畔にヌード・ビーチが作られたが、これは当時の西欧では夢想だにしないものだった。先に言及した「さらば羞恥心」会は多くの行進を行い、中には1万人もの人々が参加したものもあった。君主制主義者のアレクサンドル・トルシノヴィチは、彼らの集会の一つについてこう回想している。「クラスノダールの中央広場の壇上で裸の演説者が『さらば俗物! さらば司祭! 服など不要、我ら太陽と空気の子!』と叫んでいた。夕方ここを通ってみると、演壇は破壊され、(…)“太陽と空気の子”は袋叩きにされていた。」

 こうした野蛮な所業は第一次世界大戦や内戦の最中のロシアで繰り広げられた。1917年、1919年、1920年の革命恩赦で、国家権力が形成され始めたばかりの国家に多数の犯罪者が放たれた。犯罪者の集団には、さらに逃亡兵や解雇された兵士が加わった。

 1920年頃にはレイプ事件が社会に蔓延していた。衝撃的なのは、貴族やブルジョア出身の女性に性的暴行を加えることが、当時プロレタリアの男性の間では「階級の正義」とさえ考えられていたことだ。また、ロシアの男性の20パーセントが性感染症に罹患していた(とはいえ20世紀初頭の帝政ロシアでは、数値は25~27パーセントだったが)。結婚に関する新法や過去との決別という社会全体の雰囲気が、乱交や気楽なセックスを助長していた。

 ソビエト社会は危機的な孤児世代を生み出していた。公式の報告では、1923年までに、モスクワで生まれた子供の半数が婚外子であり、その多くが幼くして捨てられていたことが示されている。性革命の振り子は揺り戻しを必要としていた。自ら戻らないのであれば、力づくでも戻さなければならなかった。

ソビエト圧政の「翼の生えたエロス」

 ソビエト政府は性の解放が全盛期を迎えていた1920年代前半にはすでに方針を転換し、伝統的な価値観を取り戻す運動を推進し始めていた…… 結局。

 1924年、精神科医のアロン・ザルキンドは『革命プロレタリアートの性に関する十二戒』という論文を発表し、その中で「愛は一夫一婦のものでなければならない」、「性交渉は、愛し合う二人をつなぐ深く複雑な感情という鎖の最後の輪でなければならない」と述べている。

 「さらば羞恥心」がモスクワの街路を裸で行進している間にも、保健人民委員部のニコライ・セマシコ人民委員の言葉が引用された。彼はこうした振る舞いが「断固非難されねばならない(…)。売春や乱暴などの資本主義的醜行が排除されていないうちは、ヌードは不道徳を助長するだけだ(…)。こういうわけで私は絶対にこの恥ずべき行為を、必要ならば反動的手段を用いてでも、ただちにやめさせる必要があると考えるのである(…)」と記している。

 ソビエトの指導部は、人民が自己の欲求を満たすのにこれ以上エネルギーを浪費することを望んではいなかった。過酷な緊縮・削減政策が導入された。女性権利団体の運動は減退した。さらに女性たち自身、フェミニストたちが必死に闘争して求めてきた教育というものを受ける理由をほとんど失っていた。女性が伝統的で家父長制的な社会から解放されるや否や、ボリシェヴィキの方針転換で女性は台所に戻って働く夫のために食事を作ることを余儀なくされ、また工場の食料はすでに再分配済みで、家庭での料理が不可欠だった。コロンタイの「新女性」が「新」だったのはたった10年ほどのことだった。

 こうして再び家族が社会の基礎単位となった。法令は次から次に変更された。結局1934年までに同性愛は再び刑事罰の対象となり、1936年には中絶禁止法が再導入された。だがもちろん、このことで自由な女性というプロパガンダの価値が減じることはなかった。なぜなら、女性は“何でもできた”からだ。革命を推進する共産主義的課題をこなせると同時に、母でもあり、妻でもあり、料理人でもあり、掃除婦でもあった。

 その後数十年間、性やエロスはソビエトの文化と社会から完全に忌避された。このことを考えれば、ロシア社会が性に関してこれほど偽善的になったのも不思議ではない。ようやく次の性革命が起こるのは、1990年代に入ってからのことだ。