女性の力:ロシアのフェミニストたちは歴史を通していかにして権利を求めて闘ってきたのだろうか

ペトログラード、1917年

ペトログラード、1917年

Sputnik
 貴族の女性、マルクス主義の革命家、ソ連の反体制派――ロシアのフェミニズムの顔は、時間の経過とともに大きく変化していった。これは、異なる数世代のロシアの女性たちが、ジェンダーの平等のために奮闘した物語だ。

 後に、「女性が人であるという過激な考え」と表現されたフェミニズム思想は、1850年代に初めてロシアに登場した。これは、この国がいかに家父長的で保守的であったのかを考えると、女性の権利を主張するのは非常に難しい時代だった。

 人道主義者でだったレフ・トルストイでさえ、女性の人生における役割は、夫と子どもに捧げるためにあると信じていた。彼は、女性の権利を求める運動を、「滑稽で、女性の頭を混乱させる破壊的なもの」と呼んだ。なぜなら、それは、女性が家庭の外で働き、人生の意味を探すことを主張しているからだ。にもかかわらず、西欧の活動家たちに触発されて、何人かの勇敢なロシア女性たちが、家父長制に対し立ち上がったのである。

最初の一歩

マリア・トルーブニコワ

 ヨーロッパの婦人運動は、参政権を求めて闘った。しかしロシアでは、男女いずれも、1905年までは投票権を持っていなかったため、参政権、実際的な問題となっていなかった。まず初めに、フェミニストたちは、ロシア帝国の女性たちに、しかるべく教育(1868年まで、女性は大学で学ぶことができなかった)と雇用(独身女性は経済的弱者であったため)を与えることに専念したのである。

 マリア・トルーブニコワ、ナデージダ・スターソワ、アンナ・フィローソワは、変革を求めて熱心に活動する「三人組」であった。三人とも貴族出身の貧しい家庭に生まれた。彼女たちは、翻訳者や教師の仕事を創出したり、そのためにトレーニングや教授法のコースを立ち上げることで、他の女性たちを支援するよう多大な努力をした。彼女たちはまた、自分たちのコネを利用して、裁判所で、女性の教育のための陳情も行ったのである。

 彼女たちの努力は功を奏し、1868年に、政府は、ベストゥージェフ女学院を設立し、革命前のロシアで最も重要な女子の高等教育機関となった。「20世紀初頭は、ロシアが、女子高等教育の面ではヨーロッパで最も進んでいる」と、歴史家のスヴェトラーナ・アイヴァゾーヴァは、『ロシアの女性たちの平等の迷宮』で書いている。

革命の女性たち

アレクサンドラ・コロンタイ

 しかし、これは、当局が、「女性たちの運動」を支持しているということではない。1881年に、アレクサンドル2世が殺害されると、フェミニスト団体を含む、すべての非政府系の社会活動が閉鎖された。その結果、トゥルーブニコワやスターソワ、フィローソワのようなリベラルで、非暴力主義の慈善家たちは、新しい世代、より若く、よりラディカルな「革命派フェミニスト」らの反発にあったのだった。

 ボリシェヴィキのリーダーであるアレクサンドラ・コロンタイは、「個別の“女性運動”というものはない――社会が変われば、女性たちは自由になる」という立場を示した。

勝利と幻滅

 ある程度まで、それは実現した。1917年の2月革命後、女性団体は集会を開き、女性に参政権を与えるよう、臨時政府に強く求めて、出版物などで議論を起こした。それは実現し、ロシアは、女性たちが参政権を得たヨーロッパで最初の国のひとつとなった。

 1917年10月のボリシェヴィキ革命後、アレクサンドラ・コロンタイは、社会福祉人民委員に選ばれ、世界初の女性大臣となった。「マルクス主義フェミニスト」の代表であるコロンタイは、ジェノジェル(ソ連の女性たちを支える政府組織)を設立し、1919年から1930年までそこで働いた。彼女はまた、解放された女性たちが、自分のパートナーを自由に選んだり替えたりできる、「フリーラヴ」の概念の主張者でもあった。

 にもかかわらず、この陶酔は、長くは続かなかった。ヨシフ・スターリンのもとで、ソ連体制は、伝統的な家族に目を向けるようになったのである。国は中絶を禁止し、婚外での男女関係を抑止したのである。さらに、スヴェトラーナ・アイヴァゾーワが説明しているように、「母親の機能はより複雑になた... 一人の給料で足りなかったので、女性たちは家計を支えなければならなかった」のである。

反体制派とフェミニズム

ナターリア・マラホフスカヤ

 こうした規制が、スターリン時代が終わって緩和されても尚、ソ連には、女性の権利に対する大きな問題が残った。法的には、女性は自由で平等だったが、実際には、職場での仕事に加えて家事もやらねばならず、男性の二倍の労働を余儀なくされていたのだ。この不平等が、1970年代に、一部の女性たちを、再び体制に対して立ち上がらせたのである。

 「我々の指導者は、ソ連の家庭には何の問題もないと言っているが、男性による暴力があり……、産院や病院での処遇は、女性たちにとってひどいものだった」と、活動家ナターリア・マラホフスカヤは、ラジオ「スヴォボーダ(自由)」のインタビューで話している。1979年、彼女は2人の仲間とともに、ソビエト・ロシアにおける女性に関する問題について、文芸作品集『女性とロシア』を非合法で発行した。

 フェミニズム雑誌は秘密裡に配布され、知人らの間で回し読みされた。この反体制派フェミニストサークルの存在が発覚すると、当局は、『女性とロシア』の首謀者3人全員を国外追放にした。しかし、これによって、ロシアにおける女性の権利の平等に対する希望がすべて打ち消されたわけではない。フェミニズム思想は存在し続け、ソ連崩壊に至り、1990年代には、フェミニストたちが、自分たちのために公然と発言する権利を獲得したのである。

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