もしかすると、あなたは、聖ワシリイ聖堂を背景に写真を撮ることはできなかったかもしれない。ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンは、1935年、ソ連で反宗教キャンペーンが本格化した時期に会議を開き、そこで政界のエリートたちは、首都の建築上の外観を一新することを決定した。
ラーザリ・カガノーヴィッチは、このとき会議の場に居合わせた政治家の中で最も強い影響力をもつ一人だったが、地図から聖ワシリイ聖堂の模型を取り除いて、「赤の広場」を横断する戦車のために「門」を開いた。この都市伝説は実証されていないが、それによると、スターリンの反応は簡潔で厳しいものだった。独裁者は「元に戻したまえ」と命じたという。
こうした単純で運命的な、いわば出会いがしらの決着については、誰も証明することはできないだろう。だが、多くの人が信じるところによれば、一介の建築家、ピョートル・バラノフスキーが、首都の未来のアウトラインからすでに除かれていた象徴的な名建築を救った。
ピョートル・バラノフスキー
アーカイブ写真ピョートル・バラノフスキーは、技術者および美術の専門家として認められていた。彼は、名建築――しばしば宗教的なそれ――を救い、修復していた。当時、彼はもっぱらそれに携わっていたが、彼が示す宗教への共感は、深刻な問題を招いた。
それというのも、1917年のロシア革命の後、ソ連政府は厳しい反宗教キャンペーンを開始したからだ。ソ連は無階級社会を建設しようとしていたのだが、その過程において宗教が邪魔になるように思えたのだった。
古い教会が撤去されて、スポーツ施設、映画館、倉庫、寮、車庫などが建てられる予定の場所で、バラノフスキーは、歴史的建築を保存すべく、熱烈なキャンペーンを行った。
彼は、クルティツィ教会、歴代ツァーリの離宮「コローメンスコエ」、カザン大聖堂をはじめ、無数の聖堂、教会の修復を手がけた。今日では、これらの名所ぬきのモスクワは想像しにくいが、当時は、それらがソ連時代の統治を生き残ることは、誰にも保証できなかった。実際、カザン大聖堂は結局のところ破壊されてしまった。
バラノフスキーの最大の勝利は、聖ワシリイ聖堂を守ったことだ。彼の娘、オリガ・バラノフスカヤは、後年、こんな風聞を耳にした。父親が娘とともに、大聖堂の中に閉じ込もり、建物の解体を物理的に妨害したというのだ。しかし、オリガには、この未確認の噂を裏付けるような記憶はない。
彼女は父親の戦いは、それほど劇的ではなかったが、同じくらい危険で思い切ったものだったと信じている。父はスターリンに直接電報を送った、と彼女は確信している。
「父は(カガノーヴィチの)執務室で、(解体に反対して)意見を述べた後、ドアをバタンと閉めて、郵便局に行き、電報を書いた。『 モスクワ、クレムリン、同志スターリン。どうか聖ワシリイ聖堂の解体を防止してください、これはソビエト体制に政治的損失をもたらすでしょう』」。オリガはこう父が話してくれたのを思い出す。
もっとも、誰もその電報を見た者はいない。また奇跡的に聖ワシリイ聖堂が救われたことに関しては他の証言、説もあり、それはバラノフスキーの話とは異なっている。彼は、大聖堂の中に閉じこもって、主張が容れられなければ自殺するといって、ソ連の官僚のトップと戦ったというのだが…。
それらの話は、後世の人々のための伝説として、創り上げられてしまっている。そこからいつか真実だけが選り分けられることはまずあるまい。だが一つだけ確かなことがある。聖ワシリイ聖堂は今も「赤の広場」に誇らかにそびえており、世界各地から旅行者を引きつけている。そして、ピョートル・バラノフスキーは、そのことで感謝されるべき人物だということだ。
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