アルバートの女王:ソ連のスタントウーマンとなったニコライ1世の玄孫

歴史
トミー・オカラガン
 ソ連におけるロマノフ家の最後の生き残りとして、ナタリア・アンドロソワは、当然、なるべく目立たないように慎ましく暮らし、職業も地味なものを選ぶのが当然だったかもしれない。ところが彼女は、オートバイの曲乗りで一世を風靡した。

 ナタリア・アンドロソワ(1917~1999)は、公爵家に生まれ、皇帝ニコライ1世の玄孫に当たるが、命知らずのオートバイの曲乗りを行うスタントウーマンになった。ロシア革命後、彼女の縁戚はすべて亡命したり、収監されたりしていたが、ナタリアは、その魅力と巧妙なふるまいで、自分の高貴な出自をソ連の秘密警察にうまく隠した。共産主義政権下で、彼女はいろんなキャリアを試したが、花開いたのはオートバイの曲乗りだ。

 いわゆる「ウォール・オブ・デス(死の壁)」。巨大な木製の円筒のなかで、オートバイや小型車両が遠心力を利用して垂直の壁を走行しながら、曲芸を見せるという凄まじいスタントである(あと、スパイ活動もちょっとやった)。アンドロソワはそれで脚光を浴びることを恐れなかった。彼女は、剣が峰の人生を恐れず突き進んだ、まさに瞠目すべき女性だった。

 

当局から見ると疑わしい過去

 彼女は、イスカンデル・ロマノフスカヤ公爵令嬢として誕生した。ロシア革命前ならば、生まれながらにして最高に豪奢な生活が約束されていたはずだった。ところが、ナタリア・イスカンデル・ロマノフスカヤは(1920年に母の再婚でナタリア・ニコラエヴナ・アンドロソワとなったが)、1917年2月、つまり2月革命のさなかに生まれた。

 彼女はニコライ1世の玄孫(ツァーリの次男コンスタンチン・ニコラエヴィチ大公のひ孫)であったから、革命後は、タシケント(現ウズベキスタン共和国)で、家族とともに身を隠さなければならなかった。

 タシケントなら安全だと家族は思ったが、1918年に、ナタリアの名付け親であるニコライ・コンスタンチノヴィチ大公が、革命後の混乱のさなか肺炎で死去。そして、この地から一家は、ロマノフ家の人々がボリシェヴィキの手で次々に非業の死を遂げていくのを見守った。ナタリアの父も、タシケントで反ボリシェヴィキ蜂起に参加し、各地を転戦したすえ、1920年に亡命し、フランスに移る。ナタリアは、母と兄とともに、内戦の脅威に直面しなければならなかった。

 生命が危ない崖っぷちの状況のなか、ナタリアの母は1919年に、家族といっしょにモスクワに戻り、アルバート通りの汚らしい地下室に住んだ。ここは、クレムリンと目と鼻の先だが、そこで一家は庶民としてふるまった。それでもこの家族は、農民でも庶民でもないという理由で、公民権が無い状態であった。だが、ナタリアの母が1924年にニコライ・アンドロソフと再婚したことで、その点ではかなり救われ、継父の姓を名乗るようになる。

 ナタリアは、モスクワで新しい“アイデンティティ”を得たおかげで、おおむね平和な幼年時代を送ったが、母は家族の高貴な家柄を彼女から隠そうとはしなかった。「大公の孫でありニコライ1世の玄孫であることは、それ自体、死刑判決に等しかった」。彼女は1996年のインタビューでこう語った。「でもロマノフ家の家族写真はいつも私たちの家に飾られていた」

 

ソ連のスタントウーマン

 ロマノフ家の最後の一員にとっては、ソ連でサバイバルすることさえ容易ではなかった。それに、農民と労働者による差別が加わり、ナタリアの教育とキャリアの可能性は制限されていた。

 しかしナタリアは屈しなかった。「私と先祖をつなぐ糸は決して切れなかった」。彼女は、自分が常に誇らしく胸を張って歩いていた理由を、こう説明した。彼女はいつも偉大たるべき運命をもっていたように見えた。長身で、誇り高く、美しい彼女は、常に注目を集め、「アルバートの女王」と呼ばれるようになる。

 もしソ連のスターリン時代に、クールでエレガントな美女がいたとすれば、ナタリアこそその筆頭だ。彼女がまだ十代の時、「ドイツのサボタージュ要員」として拘束されたことさえある。しかしそれは、ソ連のモスクワのくすんだ背景から、彼女があまりにもエレガントに浮き上がって見えたからにすぎなかった。彼女は、茶色のベルベットのジャケット、ロングパンツ、そしてハイヒールという装いだった。

 キャリアの選択肢がほとんどなかったので、スポーツ好きだったナタリアは、サーカスのエンターテインメントの世界に入っていった。彼女は1939年に、モスクワのゴーリキー公園で、「ウォール・オブ・デス」のレースに参加した。その華やかな容姿とカリスマ性で、彼女のパフォーマンスは目覚ましいものとなった。

 作家ユーリー・ナギビンは彼女の演技をこう描いている。

 「壮絶な美。オートバイの轟音。彼女の顔は蒼白となり、目は見開かれた…。彼女は女神、レーサー、アマゾネス」

 ソ連の詩人アンドレイ・ヴォズネセンスキーも、彼女について詩を書いている。

 「オートバイは、彼女の頭上でチェーンソーのようにうなる。まっすぐな姿勢の乗り手に、オートバイは疲れ果てる。ああ、野生の魂、イカルスの娘」

 「ウォール・オブ・デス」のせいで、彼女はしばしば負傷した。「何度も転落した」と彼女は回想する。「1940年代には私は片方の膝を失った。でも一年後には、私は再び『死の壁』に戻った」

 ナタリアは、第二次世界大戦による中断のほかは、ほぼ30年間このスタントで観客を驚かせ続けた。恐れを知らぬこのスタントウーマンは、トラックを運転して前線にパンを運び、「暇なときには」、アルバート通りの家屋の屋根に落ちたドイツ軍の焼夷弾を消して回った。

 

拙劣な美貌のスパイ

 当然のことながら、ナタリアというボヘミアン的な「アルバートの女王」が、スターリンの粛清時代に当局の目を引かないはずはなかった。とはいえ、絶えず各地を公演していたナタリアは、ほとんどのソ連市民が避けられなかった、絶え間ない監視は免れ得た。

 しかし、どうやら彼女は、皇室の出自を何度も誇って口にしたようだ。1939年に、彼女の祖先を知る男が、彼女を脅迫し、性的関係を強要しようとした。ところが、ジョン・カーチス・ペリー&コンスタンチン・ペシャコフの共著『ロマノフ家の飛翔』で明らかにされているように、ナタリアはその男に平手打ちを食らわした。その結果、彼女には好ましくないことだったが、秘密警察「内務人民委員部」(NKVD)の注意を引いてしまった。

 ロマノフ家の血筋にもかかわらず、ナタリアは、秘密警察により、何百万人もの人々が被った残酷な目に遭わされることはなかった。ナタリアの担当者は、彼女を強制収容所送りにするどころか、ロマノフ家の血を引く令嬢にすっかり魅了され、積極的に彼女をリクルートしようとしたようだ。実際、ナタリア関連のNKVD文書には、「若くて知的で魅力的」と、賞賛が書き連ねてあった。当局にとって唯一の問題は、彼女が秘密警察と協力することを拒否したことだ。彼女は「他人を密告する方法なんて知りたくもない」と言い放った。

 しかし、NKVDは今やナタリアのルーツを知ったからには、「はい、さよなら」はオプションではなかった。ナタリアが課せられた唯一の任務は、「ローラ」というコードネームで、クリミアでフランス外交官を誘惑するという厄介な任務だった。

 さて、モスクワからそのターゲットを追跡して、彼の車が壊れるように仕組み、ナタリアが彼を助けるふりをして車の中に入ったのだが…その高官は餌に引っかからなかったのである。

 ナタリアはスパイとしては失敗だったので、秘密警察は彼女にスタントウーマンをやらせておいた。1964年に引退するまで、彼女は観客にスリルを満喫させ続けた。

 その後の人生は穏やかで、1950年代に映画監督ニコライ・ドスタリと結婚した。ナタリアには子供ができなかったので、彼女のロマノフ家の血を引く者は出なかった。

 夫は、結婚のわずか2年後に、撮影中に事故死。ナタリアは再婚することはなく、ニコライの二人の息子(ニコライの死別した先妻の子)を育て上げた。

 やがてフルシチョフの「雪解け」の時代が来ると、彼女はフランスの父親の家族と連絡を取り合うことができた。ソ連崩壊後には、ニースの父の墓地を訪れ、「これでもう思い残すことはない」と彼女は言った。

 ナタリアがロマノフ家の一員としての生活を送ることはついになかった。彼女の暮らしは物質面では庶民のそれだったが、彼女は皇族にふさわしい魂を持っていて、ソ連の枠内で可能なかぎり、ロマノフ家の一員であり続けた。

 彼女は、揺るぎない確信、勇気、独立心をもって人生を歩んだ。そして、服従を要求する制度に対し、信じ難いほどの断固たる態度を貫かせ、彼女の家族を奪い去った体制に静かに抗議し続けた。

 1996年に、彼女が街頭の銃声を恐れていたかと尋ねられたとき、彼女は誇らかに答えた。「いいえ、私は何も恐れたことはない」

 彼女は82歳で1999年に亡くなった。