1917年3月15日、ニコライ2世が退位宣言書に署名した。=
Getty Imagesロシア国立公文書館のセルゲイ・ミロネンコ学術主幹は語る。「退位宣言書には署名しながらも、ニコライ2世もその周辺も、ロシアの君主制が瓦解するとは考えなかった。皇帝は退位とともに、皇位継承権を弟のミハイルに付与したが、当のミハイルは、立憲民主党員らの影響下、憲法制定会議の決定まで即位を控える旨の宣言書に署名した。退位宣言書の起草にニコライ2世がどれだけ関与したのかは不明だが、調印は紛れもなく彼によってなされた」(TVクリトゥーラより)
皇帝の退位はロシア革命におけるキーイベントのひとつとなった。そして、これに対する同時代人の反応は、十人十色だった。当時の文書記録をひもといてみよう。
御用列車のプスコフ到着は夜の8時。ルズスキー将軍は会議の場で皇帝に向い、退位すべきであると直言した。その根拠として、彼が電報で調査した限り全ての軍司令官、ならびにアレクセーエフ将軍の「統一見解」が示された。皇帝はルズスキー将軍に対し、ドゥーマのロジャンコ議長に退位の意向を伝えるよう命じた。
ニコライ2世陛下がミハイル・アレクサンドロヴィチに譲位した。そのミハイル・アレクサンドロヴィチも退位し、権力を民衆に委譲した。ドゥーマでは盛大無比のミーティングそしてオヴェーションとなっている。筆舌に尽くしがたい歓喜。
陛下の退位宣言書が聖堂で読み上げられた。長輔祭が読み上げ、涙した。祈りを捧げる者の中にも咽び泣くものが多くあった。老いた者も滂沱と涙を流していた。
現下の情勢では、これほどの大国を上首尾に経営することは、専制君主には不可能だった。民衆自身が、公選された代表者を通じて、国家経営に参与しなければならなかった。ところが皇帝はそうさせなかった。結果、クーデターが引き起こされた。情勢の然らしむるところとして、ニコライ2世は帝位を追われたのだ。このように神の裁きは、我らが元皇帝、ニコライ2世に下った。古代、サウルに下されたように。
ルーシは二日で色あせた。どんなに多く見積もっても、三日で。新聞「ノーヴォエ・ヴレーミャ(新時代)」でさえ、ルーシが滅びるより素早く廃刊することはできなかっただろう。衝撃的だ。ルーシは一瞬にして砕け、粉々に、散り散りになった。これほどの激震は、おそらく、「民族大移動」を含めて、かつてなかった。
ロマノフ家は盤石比類なき王統であり得た。しかしこの致命的な数年間、一族の名と伝統にそぐわない生き方をした。あまりにも多くの者が、私利私欲に走り、理性を細らせ、個人的な欲求や野心をひたすらに満足し続けるという道に堕した。そうしたふるまいが他人の目にどのように映るか、誰か気にするものがあっただろうか。いや、誰も。
ニコライ2世にとって、帝位は運命によって押し付けられたものであり、やがて悪夢となった。2つの革命を体験し、自分を取り巻く何十人もが暗殺され、設置を望んだわけでもない国会で議長を任され、それに参加し、また、いつ果てるとも知れない閣僚会議に出席した。加えて、2度も戦争をすることになった。自分は平和の使者になりたかったのに。そうして長期にわたる監禁の末、殺された。そんな彼の最大の関心事は、退位の前も後も、たった一人の跡取りであり、不治の血友病を患っていた、息子の体のことであった。
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