ロシアのニジニ・タギル(モスクワから東へ1374キロ)には、ニューヨーク市と共通するものは皆無に近い。ウラル山脈の東斜面にある、人口35万5000人のこの街は、1722年の創設以来、ロシアの工業において重要な役割を果たしてきた。粗鋼、鉄、銅を生産するいくつかの工場で働いていた労働者が、この街の人口の基をなした。
しかしニジニ・タギルは、ビジネスや文化の面では、ロシアのメガポリスとは言い難い。地域の行政中心地でさえない(同市はスヴェルドロフスク州に位置している。州都はエカテリンブルグ)。にもかかわらず、地元の人々は、1886年にオープンしたニューヨーク市の顔である「自由の女神像」と関わりがあると信じている。
粗鋼、鉄、銅を生産するいくつかの工場で働いていた労働者が、ニジニ・タギルの人口の基をなした。
Reutersその関わりとは何か?ニジニ・タギルのオンラインガイドには、こう語られている。「フランスの彫刻家とアメリカ人の心の誇りは、ロシアの技術とニジニ・タギルの工場労働者のおかげで建設された」。これはもちろん、「自由の女神像」の外層を造るのに使われた90トンの銅板を指している。銅板生産に使用された銅が、ニジニ・タギル産だというわけだ。
今日にいたるまで、この像をデザインしたフランスの彫刻家、フレデリック・オーギュスト・バルトルディが、どこから銅を手に入れたかは、不明のままだ。だから、ロシア起源説は、類似のノルウェー、イギリス、スペイン起源説などとともにいまだに存在している。おまけに、ロシア説は、ニジニ・タギルの銅が19世紀にヨーロッパで高く評価されていたため、説得力がある。
とりわけ、ロシアのブランド「Old Sable」はヨーロッパ全土、とくにフランスで人気があった。1867年、パリで開催された世界博覧会でも優勝している。だから、理屈の上では、「自由の女神像」を制作したバルトルディとそのパートナーは、モニュメントに必要な大量の銅を、ロシアの工場に注文した可能性はある。
自由の女神像の内部
Trevor Collens/Global Look Pressしかし、この伝説が正しかったとして、なぜロシアの貢献は、モニュメント建設に関する文書ではまったく言及されていないのか(他のことはほとんどすべて明らかになっているようなのに)?ロシア説を信じる人は、それがフリーメーソンと関係があるからだ、と考えている。
19世紀のフリーメーソンは――アメリカとフランス、双方の――アメリカ独立記念日の祝賀に関わっていた。彼らが唱道した理想は、アメリカの革命で支持された理想、すなわち「自由、平等、博愛」に類似していたから。だから、ロシアのメーソンも参加した可能性があるが、ただし、秘密の形でだった。
なぜか?フリーメーソンは、1822年以来、ロシア政府によって迫害されてきた。アレクサンドル1世は、すべての秘密結社のロシア帝国内での会合を禁止した。もっとも、メーソンたちはやはり秘密裏に会合を続けていたが、注意を引かないように努めていた。だから、彼らが「自由の女神像」の制作に実際に参加したとしても、彼らはそれを伏せておきたかっただろう、というわけだ。
ニジニ・タギル駅
Reutersしかし、ロシアの工業家やフリーメーソンが「自由の女神像」の制作と何らかの関係があることを示唆する、納得のいく確証はない。
もちろん、これも完全にはっきりした話ではないが、バルトルディは女神像の銅をノルウェーから入手したという説のほうが、むしろ信憑性がありそうだ。1870年代には、ノルウェーの鉱山会社を所有していたフランス人がおり、この会社は銅の採掘に携わっていた。
さらに、アメリカの科学者が行った分光分析では、「自由の女神像」とノルウェー銅山のサンプルはまったく同じではないが、非常に似ていた。だから、まだ疑問の余地はあるものの、こうしたことを考え合わせれば、ロシアのメーソン関与説はいよいよ怪しくなる。
だが、たとえ、「自由の女神像」の銅がロシア産だという説が、歴史的な間違いだとしても、この説にはそれなりの意味がある。例えば、2015年には、このアメリカ最高の象徴的モニュメントの建設に貢献したロシア人の伝説をめぐり、ニューヨーク市とニジニ・タギル市の両方で、同名の展示会が開催された。
だから、この伝説の怪しさにもかかわらず、それは、2つの文化を結びつけるのを助けたことになる。今や、伝説のおかげで、少なくとも何人かのニューヨーカーは、ニジニ・タギルがどんな街で、どこにあるかを知っているのだから。
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