ロシア人はいかにアラスカを探検したか

Library of congress/ Imperial Academy of Saint petersburg
 1775年の地図のおかげで、ロシア人がどうやってアラスカを探検したのかを知ることができるようになった。 ロシアNOWは当時の足跡をたどり、誰がいつアラスカを探検したのかを調べてみることにした。 また、ロシアがなぜ自国の領土を売却したのかも調べてみた。

「サンクトペテルブルク帝国アカデミーにより出版された地図に基づくロシアの発見」 =アメリカ合衆国議会の図書館「サンクトペテルブルク帝国アカデミーにより出版された地図に基づくロシアの発見」 =アメリカ合衆国議会の図書館

 この地図は明らかに、地図やグラビアの出版で有名なロバート・セイヤー社により、ロンドンのフリート通りで1775年に印刷されたものだ。 この地図は「サンクトペテルブルク帝国アカデミーにより出版された地図に基づくロシアの発見」と呼ばれている。

 これはジェームズ・クックが1778年に行った太平洋を横断する第3回航海の前に出版されたもので、 ヴィトゥス・ベーリングとアレクセイ・チリコフが1741年に同時期に並行して行った探検中に得られた知識と、それ以前のロシア人による探検から得られた情報に基づいたものである。

 

最初の入植者

 現代のアラスカにあたる土地に初めて到達した人類はシベリアから到来したが、それは約15,000~20,000年前のことである。 その当時、ユーラシア大陸と北アメリカ大陸は、ベーリング海峡の地峡でつながれていた。

 これらの探検が実施されなかったとしても、カムチャツカの一部の住民は、おそらくアラスカを目にすることができたと思われる。 この土地は、地図上では「カムチャツカの住民が言及する土地で、一部の航海士によれば、それはベーリング海峡の島から見えるという」と記されている。

 

 

アラスカを探検した人たち

 セミョン・デジニョフ (およそ1605~1673年) は当初政府職員として採用され、いくつものシベリア地方の町で業務に携わった。

 探検中、彼はベーリング海峡の中間にあり、米国とロシアの国境となっていたダイオミード諸島に初めて上陸した。 つまり、彼はベーリングよりも80年前にこの海峡に到達していたことになる。

 ピョートル大帝はデジニョフを完全には信頼していなかったため、アジアとアメリカが本当につながっているのかどうかを確認するために、ヴィトゥス・ベーリングとアレクセイ・チリコフによる探検を組織した。 ベーリングとチリコフは、アラスカへの探検を2回行った。

 地図上の線は、ベーリングによる航海とチリコフによる2組の探検隊の航海ルートを示したものだ。

 

 ピョートル大帝は、北アメリカとアジアが陸続きの国境を共有しているかどうかを確立するための第1回カムチャツカ探検隊のリーダーとして、ヴィトゥス・ベーリング (1681~1741年)を選んだ。 その航海後、ピョートル大帝はベーリングを船長兼司令官に昇格させた。 2回目の探検中、彼は副官たちから離ればなれになり、アラスカ南東のどこかに上陸したが、悪天候のため引き返すことを余儀なくされた。

 ヴィトゥス・ベーリングと生き残った船員たちは漂流の末、ベーリング海南部、カムチャツカから東方に175キロの場所に位置するコマンドル諸島にたどり着いた。 1741年、彼は生存していた28名の船員と共にこの地で亡くなり、この島は彼を記念してベーリング島と改名された。

 アレクセイ・チリコフ (1703~1748年) はベーリングの副官だった。 1741年、別々の船に乗った彼らはカムチャツカから出航したが、その後二人が再会することはなかった。 チリコフは北アメリカの北西岸に上陸した最初のロシア人となり、アリューシャン諸島の数々の島の地図を作成した。その一つにはコディアック島があり、この島は、18世紀末にはロシア領アメリカで最大の入植地となった。

コディアック島=Lisyanskij/ Wikipedia.orgコディアック島=Lisyanskij/ Wikipedia.org

 

ロシア領アメリカの起源

 1784年10月22日、グリゴリー・シェリホフ率いる次の探検隊がアラスカに到達し、アラスカ南海岸のコディアック島に最初の永住地を築いた。

 1774年以降は、スペインの探検隊がアラスカに到達するようになった。 いくつかの集落や地理的名所にはスペイン語の名前(リオ・デ・ロス・レイエス)が付けられていた。

 

露米会社

 ロシア人商人たちはセイウチの牙 (それは象牙と同じくらい高価だった) や貴重なラッコの毛皮を求めてアラスカに向かった。

 取引は、アラスカのすべての鉱山と鉱物を支配していた露米会社 (RAC) によって行われた。 同社は独自に他国と通商協定を締結する権限を有していた他、独自の旗と通貨を持っていた。

 これらの権限は、帝国政府からの勅許により与えられていた。 政府は同社から莫大な額の税収を得ていただけでなく、幅広い土地も所有していた。ツァーリと皇族一家はRACの有力な株主だったのである。

 アメリカにおけるロシアの入植地の有力な統治者は、有能な商人アレクサンドル・バラノフだった。

= JLS Photography/Flickr.com= JLS Photography/Flickr.com

 

ロシアはなぜアラスカを売却したのか

 クリミア戦争 (1853~1856年) の勃発時、イギリス、フランスとトルコはロシアと対立した。 海路が同盟国の船舶によって支配されていたため、ロシアはアラスカに物資を供給することもできなければ、防衛することもできないことが明確になった。 金を採掘する見通しさえもがあやうくなった。 英国がアラスカをブロックし、ロシアには何も残されなくなるという恐怖があった。

 ロシアとイギリスの間での緊張が悪化する中、アメリカ当局との関係はこれまでになく緊密になっていた。 両国からほぼ同時にアラスカを売却する案が提示された。そこで皇帝を代表する駐ワシントン・ロシア大使エドゥアルド・スチョクリ男爵が、アメリカのウィリアム・スワード国務長官と協議を開始した。

売却額

 1867年3月30日、ワシントンDCで、両当事者は、150万ヘクタールにおよぶアメリカのロシア領を720万ドル、すなわち1エーカーあたり2セントというあくまで象徴的な額で ($4.74/km²) 売却する条約が調印された。 当時、生産性の低いシベリアの土地でも、国内市場では1,395倍の価格がつく可能性があったほどだ。 だが、この象徴的な支払額さえ受け取れない可能性があるほど、ロシアが直面していた状況は深刻だったのである。