モスクワの隠れた名所:ツァーリの恋、ワイン、詩…

歴史
アレクセイ・ティモフェイチェフ
 ロシア・ビヨンドは、モスクワの豊かな歴史のなかから、一風変わった、あるいは時代に先駆けた、あるいは単に魅力的な瞬間を「目撃」した、5つの場所を選んだ。 そこで展開する物語の主人公のなかには、18世紀の大企業家にして鉱業界の重鎮の息子、茶商人、ロマノフ朝の最初のツァーリ、世界的演出家スタニスラフスキー、大詩人パステルナークなどがいる。

デミドフの花園の生ける彫像

 プロコフィー・デミドフは、大実業家にしてウラル鉱業界の大物の息子。18世紀ロシアの有名な奇人だ。植物が好きで、自分の地所に、エキゾチックなハーブと花をたくさん所有していた。これは、今では首都最古の庭園である「ネスクーシュヌイ庭園」の一部をなしている。公園の中心に彼は、花壇を設け、古典的な彫像を置いた。

 モスクワの庭師は、当時は主に女性で、これらの奇怪な植物に興味をもち、掘り起こし始めた。これを止めさせるために、デミドフは珍妙な解決策を思いついた。彫像を、小麦粉をまぶした、本物の裸の男に置き換えたのだ。夜になって、女性たちが植物を取るために忍んで来ると、彫像は突然生きて動き出し、泥棒を仰天させた。それ以来、誰も公園から花を盗まなくなったという。

 

レストランで誕生したモスクワ芸術座

 レストラン「スラビャンスキー・バザール」は、ロシア演劇史の一つの象徴で、クレムリンからわずか500メートルの、ニコーリスカヤ通りにあった。1897年夏、ロシア演劇の二人のレジェンド、コンスタンチン・スタニスラフスキーとウラジーミル・ネミロヴィチ=ダンチェンコが、後に有名になる朝食をしたためていた。二人の会話は18時間続き、レストランで延々と時を過ごした後、スタニスラフスキーの別荘でやっと終わった。

 彼らは、演劇上の原則、理念について話したのだが、それは、新劇場「モスクワ芸術座」の基礎となった。この劇場は、翌1898年に開館。二人の考えでは、これは民衆の劇場となり、他と根本的に異なるものでなければならなかった。

 「世界各国が集う国際会議でも、ある種の焦眉の国家的大問題は話し合われない。我々は、そういう問題、つまり我々の未来のプロジェクトの性格について話し合った」。スタニスラフスキーは後に、この決定的な会合について回想している。

 残念ながら、このレストランは残っておらず、1990年代初めに閉鎖された。

 

クレムリンの花嫁コンテストの顛末

 ロマノフ朝最初のツァーリ、ミハイルは、1613年に即位したが、長い間未婚のままだった。やっと1624年になって配偶者を見つけたが、数ヶ月後に死亡してしまった。そこで、ツァーリの新しい妻を見つけるために、伝統の花嫁コンテストが開催された。全国各地の美人たちがクレムリンの宮廷に集まった。

 ところが言い伝えによると、ミハイルは、すべての花嫁候補があまりにも厚化粧をしているので、誰も気に入らなかった。

 そこでミハイルは、もう一度試してみることにしたが、今度は、夜間に、花嫁候補に気づかれないようにこっそりでかけて行った。暗がりの中で候補者たちを見たとき、ツァーリは、一人の美貌に驚嘆した。実は彼女は、候補者ではなく、ある候補者の友人にすぎず、彼女の父親は、地方の貧しい士族だった。

 ツァーリの家族は、彼の選択を喜ばなかったが、ミハイルは断固彼女と結婚する意志を貫いた。その彼女、エヴドキヤ・ストレシニョヴァは皇后となり、ツァーリと終生、ほぼ20年間にわたり添い遂げた。

 

ペトロフカ通りのワインと愛

 19世紀のモスクワのペトロフカ通りには、当時有名だったワインショップ「カミーユ・デプレ」があり、アレクサンドル・ゲルツェンの回想『過去と思索』でも言及されている。「ワインはもちろん、ペトロフカ通りのデプレから運ばれてきた」と、この名高い革命的思想家は書いている。作家アントン・チェーホフも、デプレが贔屓で、ある作品にその薬草系のリキュール「ベネディクティン」について書いている。デプレは宮廷にもワインを納めていた。

 この成功したビジネスは、ラブストーリーとして始まった。ナポレオンの「大陸軍」の将校であったカミーユ・デプレは、ボロジノの会戦で負傷し、彼を看病してくれた看護婦に恋した。健康が回復すると、彼は彼女にプロポーズし、二人は結婚した。ペトロフカの地所は妻の実家のもので、そこで彼は、新しいワインショップの最初の店を開いたという次第。

 

茶商人の家での恋

 茶商人のダヴィド・ヴィソツキー、より正確には彼の娘イーダは、大詩人ボリス・パステルナークの人生で重要な役割を果たした。

 若い頃、パステルナークはイーダを恋していて、オゴロドニャ・スロボダー通りの彼女の家を頻繁に訪れた。そもそものきっかけは、有名な画家だった父レオニードと一緒に同家を訪れ、父がイーダに絵の手ほどきを始めたこと。パステルナークの後年の回想によると、彼は、どんなレッスンをやっているのか知らなかったし、気にもかけなかったという。

 3年後、彼はドイツのマールブルクで彼女に求婚したが、イーダは断った。パステルナークは深く傷つく。傷心を克服しようと、彼はますます多くの詩を書くようになった。結果的に、この出来事は、彼の詩人としての才能を大いに高めたと考えられている。

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