「もしすごく危険な目にあったとしたら、たとえば、イエメンにいたとしても、チェチェン人の友人であると言え。ただ、それだけで、すぐに兄弟だと思ってくれるだろう。」
モスクワで学生生活を送っていたことから、わたしはロシア中を旅することができた。そしてこの言葉は、我々がグローズヌィの真ん中で、チェチェンのツアーガイドと最後の別れを惜しんでいたとき、彼がわたしと友人に残してくれたものだ。今日まで、彼が教えてくれたこの言葉が、ほんとにイエメンで我々を助けてくれるのかは知るよしもないが、彼の言葉のありがたみは身に染みて感じる。
このガイドというのは、友人の友人の、そのまた友人で、わたしたちにちょうどチェチェンの山岳地帯を一日かけて見せ終わってくれたところだった。彼はグローズヌイ中心部にいたわたしたちを自然の中に連れ出し、川や山々、渓谷を見せてくれた。また、カフカス地方の料理を教えてくれ、ふんだんに食べさせてくれた。そして驚くべきことに、彼は自分の旅行会社がつぶれてしまいかねないのも気にせず、一切お金を受け取ろうとしなかった。
わたしたちはチェチェンでは客人であった。そしてこのことは、カフカス地方で大きな意味を持つ。
アメリカ人であるわたしにとって、このようなことは文字通り想像を絶するものであった。しかし改めて言うが、ロシアで出会ったもののすべてがまったく想像を超えたものであったと言える。
チェチェンでのわたしの経験は、ロシアでの他の多くの場所での経験もあわせて、この国をこよなく愛するようになった理由だ。カフカスの山々からサンクトペテルブルクのドストエフスキー風の路地に至るまで、ロシアは多様性あふれる国で、隠された宝石が数多くある。
もちろん、この言葉の意味を自分で体験したいと思うなら、実際にチェチェンに行くしかない!
チェチェンの山岳地帯にて、クリスチャンと友人
Kristian Fors's Personal Archiveアメリカの多くの少年たちと同じように、わたしはロシアにずっと興味を持っていた。ソ連の崩壊は、アメリカのポップカルチャーに不変の影響を残し、2000年代初めにアメリカで育った少年が得た遺産を残した。ソ連が存在していた当時まだ生まれていなかったわたしでさえ、テレビゲーム、本や報道の中で見ていたイメージは、当時の生活はどんなものであったのかを夢想させ、赤の広場で毛皮の帽子を被ったソ連の男性のイメージが想像の中で膨らんでいった。そして年を経るごとに、わたしの興味はより具体的な情熱となり、高校の国語教師がロシア文学を読むことを勧めてくれてからはトルストイやドストエフスキーの作品を読み始めるようになった。
アメリカの大学では、学生は学びたい授業があればどんなものでも受講することが出来る。たとえそれが、目指す研究分野とかけ離れていたとしてもである。それで、わたしは大学で経済学を専攻していたが、ロシア語初級をとり、その後わたしのロシアへの情熱は手の付けられないものになっていった。
最初にロシア語の講義に出席し、講師が「ズドラーストヴィチェ!」と挨拶してきたことをはっきりと覚えている。その時、わたしは、何でこんなものを始めてしまったのかと思い、下を向いてしまったものだ。
わたしは以前、スウェーデン語を学んだ経験があり、これはいくらか英語に近かったのだが、ロシア語はそれとはまったく異なり、それが容易ではないことは即座に分かった。それにもかかわらず、この挑戦に引き付けられたわたしはロシア語を習得することに執着した。実際にこの言語を学ぶことにあまりに熱心になり、ロシアの文化にあまりに興味を持ってしまったために、一学期が終わったころには、サンクトペテルブルクに留学することを心に決めたのである。
ロシアに着くと、そこはまるで物語の世界のようであった。ハリーポッターのホグワーツを想像してほしい。そこは、決して実際に訪れることなど出来ないと思っていた虚構の場所で、頭の中や想像の中だけで存在していた場所なのである。それが今、突然にホグワーツに行くことが出来たとしたらと、考えてみてほしい。最初にロシアに着いた時の感覚はこんな感じだった。サンクトペテルブルクに向かう飛行機が降下を始めた時、わたしの目の前に突然写真でしか見たことのなかったソ連の象徴的な高層建築が現れた。それでわたしはついにロシアに来たのだと実感した。
到着すると、大学の職員が出迎えてくれ、寮まで連れて行ってくれた。それは灰色のコンクリート製の建物で、何人かの「おばあちゃん」たちが番をしており、そこにソ連時代の名残を感じた。翌朝、サンクトペテルブルクの雪がついた通りを散歩していると、微笑みや感情をあからさまに出すことを拒否した社会に迎えられた。ここは生れ育ったカリフォルニアとはまったく違う文化であるようだった。
中でも最大のカルチャーショックは、サンクトペテルブルク国立大学のエラスムス留学生交流会がロシアの自然の中にあるダーチャ(郊外の別荘)で「飲み放題」パーティーを開いたことだ。これはわたしにはまったく不可解なことであった。何故なら、アメリカでは、大学関連の行事でアルコールが出されることは絶対にないからだ。
2020年、サンクトペテルブルクに交換留学
Kristian Fors's Personal Archiveサンクトペテルブルクでの交換留学生としての経験は信じられないほど得難いものであった。
わたしが出会ったロシアの人々はとても「率直」で、誰もが地のままであるように思えた。表面的な会話や世間話などはそこにはなかった。ロシア人はどんなことも全部話してくれるのだった。
ロシア人が世間話の多い外国人にこう言うのを聞いたことがある、「どうしてあなたは何も話さずに会話するのか?」と。
ロシア人の生き方にはわたしが敬愛する率直さが確かにある。例として挙げるなら、ロシア人は実際に微笑むべきことがない時には微笑まない。愛想笑いはしないのである。あなたがあるロシア人に好かれていればすぐに分かるし、好かれてない時もすぐに分かるのだ!
サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館前で
Kristian Fors's Personal Archiveわたしは本当に愛すべき人たちを見つけたと思い、このすべての新しい友人たちや身に着けた言語力を残して去るべきでないと考えた。ロシアから離れるにはまだ早いと思ったのである。
帰国後、ロシアの大学院で学ぶ申請をし、モスクワ国際関係大学(MGIMO)に入学した。この大学はアメリカの政治家であるヘンリー・キッシンジャーが「ロシアのハーバード」と呼んだ大学だ。
MGIMOがロシアで高い評価を受けている大学であることは知っていたが、それがどれほどのものかはっきりと理解していたわけではなかった。
モスクワに到着し、大学寮に向かう途中、キルギス出身のタクシー運転手と話をした。彼は何回も、「MGIMIOか、すごいね!」と言ってくれた。おそらく20回は繰り返しただろう。このとき、わたしはこれから経験することはとても面白いものになると確信した。
モスクワ国際関係大学(MGIMO)の前で
Kristian Fors's Personal ArchiveMGIMOに入学し、最初に登校した時、すべての男子学生がスーツにネクタイをしめているのを見て驚いた。アメリカの大学とまったく対照的であったからだ。アメリカでは学生はスウェットパンツをはいている者が多く、中にはパジャマ(!)で講義に来る者さえいる。また、外交官用自動車が頻繁に大学に付けられるのも驚きだった。ここの学生の多くは黒塗りのメルセデスGシリーズで大学にやって来る。まるでジェームズ・ボンドの映画を観ているかのようだ。
MGIMOにいると、まさに隠された世界、ロシアのエリートの世界、ロサンゼルスで生れた人間には普通決して見ることが出来ない世界に入り込んだような気持ちだった。
サンクトペテルブルク時代の体験はほとんどのアメリカ人が抱いているロシアのイメージを大きくなぞるものであったが、モスクワでは、ロシアの多様性とその世界の一端に触れることが出来た。
大学の歓迎会の日に、多くのアメリカ人が聞いたこともないような数多くの場所から入学してきた人たちと会った。学生クラブのブースを歩き回っていると、学生たちから呼び込まれてロシアの様々な共和国の料理を試すことが出来た。チェチェン、カルムィキアをはじめ、多くの旧ソ連構成国の味であった。
「どうぞ、オセチアのパイを試してみて」と言う掛け声は、西側諸国の大学では決して耳にすることはないだろうと想像したものだ。
このような多様性は、大学においてだけではなく、モスクワ全体に言えることである。モスクワでは世界中から来た人々やレストランがある。トルクメニスタンや北朝鮮のものさえある。わたしは友人たちと出来るだけ多くの料理を試そうと頑張ったものだ。ローマにおいてはローマ人のように食べるが、モスクワにおいてはトルクメニスタン人のように食べるのである。
モスクワのトルクメニスタン・レストランにて
Kristian Fors's Personal Archiveわたしが、ダゲスタンやチェチェンのような、あまり人が行かないロシアの場所を旅したいと思うようになったのは、このような多様性に触れたことがきっかけだった。アメリカ合衆国国務省はアメリカ市民にたし、このような場所には行かないように警告を出していたし、ロシア人や外国人の友人たちも同じように、カフカスなんかに行けば殺されるか、誘拐されると忠告してくれたのだが、わたしは自分の冒険魂を抑えられず、とにかく行くことを決心した。
グローズヌィ空港では前チェチェン指導者アフマド・カディロフの巨大な肖像画が迎えてくれた。これを見てわたしは、ここはそれまでいたロシアではないのだと実感した。
チェチェン、グローズヌィの空港
Kristian Fors's Personal Archiveわたしは、ロシアにチェチェンやダゲスタンのような場所があることが気に入っている。ひとつの国の中で、このような多様な文化や人々と出会えることが大好きなのだ。
わたしがロシアを好きな理由のひとつは、他のヨーロッパ諸国と比較して文化がうまく保存されていることだ。モスクワやロシアは概して この国の地方行政や文明化領域では中心であつことは確かで、この領域では西側諸国と共存しているが、他の大部分では西側とは一線を画している。
カザフスタン出身のタクシー運転手との愉快な出会いがその好例であろう。モスクワには「チャイハナ」と呼ばれる中央アジア料理のチェーン店が街の至るところにある。
車で走っている途中、運転手は、「アメリカにもチャイハナはあるか?」と尋ねた。
わたしは微笑しながら、「まったくない」と答えた。
もちろんアメリカには中央アジア料理のチェーン店はないが、このモスクワ住人がそれを知らないと言うことで、 わたしは、2つの世界の間に文明の割れ目があることを知った。
ロシアには本当に文化がよく保存されている。そして旅をすると、その多様な文化を次々と実感することが出来る。
モスクワ、赤の広場で
Kristian Fors's Personal Archiveロシアや他の東ヨーロッパ諸国でほぼ2年間を過ごした。そしてそれは人生における冒険の日々であった。今後ロシアから去ることが出来るようになるかどうかはよくわからない。なぜなら、これまで1週間でもロシアを離れたときでも、すぐに戻りたくなったからだ。
おそらくロシア語の特殊な文法を完全に覚えるためだけでも、わたしは今後の全人生をロシアで過ごさなければならないだろう。
冗談はさておき、この2年間はわたしにとって真に啓発的なものであった。ロシアについて少しでも興味があるなら絶対にロシアに行って学ぶことをおすすめする。短期間留学するのも良いが、ロシアの大学に正規入学し、その教育システムに全面的に身を置くのことも選択肢に入れるべきだ。それは、眼を開かされるような経験になるし、エラスムス交換留学よりもはるかに識見を得ることが出来、文化に深く触れることが出来る。
とは言っても、今後どのような道に進もうとも、それがロシアで役立とうとも、ロシアの人々とともにあっても、まったくロシアと関係なかろうとも、ロシアに戻って大学院に入ったことには100%満足している。MGIMOで学べたことは今後も幸福だったと思えるだろうし、この大学に誇りをもって、ロシアの人々に深い尊敬と愛情を抱き続けることであろう。
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