コロムナでは、いつの時代も、アントーノフカと呼ばれる酸味のあるりんごが豊富に採れたことから、そのりんごに蜂蜜または砂糖を加えて作るパスチラというお菓子が考案された。革命後、この伝統的な産業は忘れ去られてしまったが、19世紀の初頭、コロムナで、このお菓子をこよなく愛する人々が、昔ながらの製法でのパスチラの製造を復活させた。今では、街を訪れた誰もがこのパスチラをお土産品として持ち帰るようになっている。
重要なのは「取っ手に達しないこと」!コロムナには、もう一つ人気の食のアトラクションがある。それはルーシ時代に食べられていたのと同様の、本物のカラチというパンである。カラチは、古代ロシアのストリートフードとも言える。見た目は特別なものではないが、そのホカホカのパンを手に取れば、たちまちその柔らかさに感動することだろう。18世紀にはスライスしたカラチに具材を乗せて、オープンサンドが作られるようになった。そして今、コロムナでは、たとえば煮たガチョウを乗せたサンドイッチなどを食べることができる。
蜂蜜の入ったコヴリーシカは、9世紀にはすでにルーシで作られていた。そして、とりわけこの焼き菓子が人気だったのがザライスクである。ザライスクは、多くの商人たちがルーシ全土を移動するのに通過した場所で、またこの地にはいつの時代にも養蜂場や粉ひき小屋がたくさんあった。つまり、この地は蜂蜜と小麦粉が豊富だったというわけである。
ザライスクのコヴリーシカは19世紀から広く知られるようになり、2018年になって、忘れ去れていた産業が地元の人々の尽力により復興した。
現在、蜂蜜やさまざまなスパイスを入れて作る(コショウを入れることも!)コヴリーシカは、ザライスクのクレムリンからほど近いロシアで最初に作られたコヴリーシカ工場でも食べることができる。
プリャーニクと言えば、昔からトゥーラのものが一番有名である。しかし、ルーシ時代、このお菓子は文字通り、あらゆる場所で作られていた。一方、ドミートロフで作られていたのが、模様のついた特別な木型に入れて焼く「型焼き」プリャーニキである。
古いプリャーニキ用の板はドミートロフのクレムリンにある博物館に収蔵されている。ドミートロフでは、今でも、フルーツの餡を詰めたジンジャー入りのプリャーニキが焼かれていて、毎年、「ドミートロフのプリャーニク」フェスティバルが開かれている。そこでは長い歴史を持つロシアのお菓子を作るワークショップも開かれ、誰もが参加できる催しとなっている。
「ロシアには3つ首都がある。それはモスクワ、リャザン、そしてルホヴィツィだ」という表現が地元にはある。
リャザン州とのほぼ境界線上にあるモスクワ郊外の街ルホヴィツィでは、地元の人々は1930年代からほぼ1つの産業に従事してきた。それがきゅうり作りである。というのも、オカ川の氾濫原は微量ミネラルが豊富で、おいしいきゅうりがたくさん採れたからである。モスクワとリャザンを繋ぐ街道を走ったことがある人なら、道中のほぼすべての家のそばで、よりどりみどりのきゅうりが売られているのを目にしたことがあるはずだ。しかもその値段は、信じられないほど安い。そして、リホヴィツィにはきゅうりの記念碑がある。その記念碑には、
「わたしたち満たしてくれるきゅうりへ、感謝でいっぱいのリホヴィツィの住民より」と書かれている。
1960年代、当時のソ連閣僚会議の副議長だったアレクセイ・コスィギンがアメリカを訪問したとき、「冷たいポマード」というアメリカのキャンディーを食べた。彼はそれをソ連の菓子製造研究所に持ち帰り、その製法を解明し、それをベースに独自のお菓子を作った。
そして1972年、ポドリスクのお菓子工場が、「ポドリチャンカ」を初めて大量生産した。チョコレートでコーティングされたポマード状のクリームのお菓子は今でもポドリスクで生産されており、ロシア全土で名声を博している。
このお菓子のレシピを考案したのは、セルプホフで織物工場を所有していた裕福な女商人アンナ・マラエワである。彼女には8人の子どもがいたが、皆、甘いものが大好きだったため、子どもたちのためにと作ったのが、このクリームと蜂蜜のお菓子である。
第一次世界大戦時には、この工場内に、負傷者のための病院があったという言い伝えがあり、ここでは傷ついた兵士たちに、早期の回復を祈り、高カロリーのマラエワのポマートカが与えられたと言われている。
安価な砂糖が出回るようになったことから、昔ながらの製法は廃れたが、現在、セルプホフではかつての製法が蘇っている。
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