フランス料理はどのようにしてロシアにもたらされたのか?

セルゲーイ・ボンダルチューク監督による『戦争と平和』

セルゲーイ・ボンダルチューク監督による『戦争と平和』

Sergei Bondarchuk, Vasily Solovyov/Mosfilm, 1967
 1812年にフランス軍がロシアに攻めてきたとき、ロシア人兵士たちは何を食べていたのか?矛盾しているようだが、この時代は、伝統的なロシア料理への愛国的な回帰を遂げながら、同時にこれまでになかったフランスのレシピを取り入れたときであった。

フランス料理はいつから好まれるようになったのか

 外国人シェフを招くという流行は18世紀の初旬に始まったが、それはピョートル1世の西欧諸国訪問の影響を受けたものであった。ピョートル1世は西欧諸国から、多くの新しいものを持ち帰った。そしてピョートル1世がロシアに戻った後、裕福な家庭では外国人シェフを雇うようになったが、もちろんその中にはフランス人もいた。そしてこうした傾向はピョートル1世の娘であるエリザヴェータ・ペトロヴナの時代になり、さらに強くなっていき、貴族たちは積極的にフランス語を学ぶようになり、ロシア貴族の料理は、ヴェルサイユの料理を真似たものへと変化した。すべての料理が同時にサーブされ、テーブルは美しい羽根や小さな噴水、生花、造花のブーケなどで飾り立てられた。またデザートには、水漬けリンゴ、塩漬けのスイカやレモン、砂糖をまぶしたメロンに、フランスやイタリアのキャンディやゼリーが添えられた。

 フランス人哲学者と交流が深かったエカテリーナ2世の時代はちょうどフランス革命の時代と重なっており、フランスの上流階級の一部が自分たちの使用人を連れてロシアに亡命した。彼らの運命はさまざまであったが、多くの人々が食に関する場所で仕事を見つけた。当時フランス人の需要は高かったのである。フランス人シェフがロシアに入ってきたおかげで、フランスの調理法も次第にロシアに定着していった。それは食材の組み合わせ、正しい調理の手順、材料を細かく刻むことなどであった。たとえばそれまでロシアでは、ピローグ用の魚や肉は薄切りにするのが一般的で、細かく刻むことはなかったのである。またカツレツ、ムース、オムレツ、サラダなどのフランス料理も取り入れられるようになった。ロシアのパーティなどでは、ロシアの料理と外国の料理が交互に出されることもあった。

1812年の戦争時代の料理

 1812年のロシア戦役の時代、ロシアの貴族たちはつらい生活を強いられることとなった。貴族たちはフランス語で話せなくなり(ロシアの貴族は当時、かなりフランス化していた)、中にはそれで非常に苦労した者もいた。そのことは、レフ・トルストイの小説「戦争と平和」に登場するイッポリート・クラーギン公爵がロシア語で冗談を言えなかったという行を挙げれば十分だろう。言語のほかにも、愛国主義的な気運から、フランス料理を食べるのもやめなければならなかった。幸運にも、配給にはそれほど大きな影響はなく、肉料理、塩漬け、クワス(パンから作る微炭酸微アルコール飲料)などは手に入れることができた。一方、地方の一般市民たちはまだフランス料理に親しむところまで行っていなかった。

 戦争中、将校や兵士たちは軍事省庁からもっとも必要なものをすべて受け取っていたが、必要以上にもらえるわけではなかった。遠征や護送の際には数日にわたって配給がないこともあり、そんなとき彼らは自分でパンを持参した。毎日の配給にはシチー(スープ)が含まれていた。精進の時期には、小さく刻んだ魚に植物油の入ったもの、そうでない時期には脂身または牛肉の入ったものが与えられた。国からは小麦粉と穀物(もっとも多かったのはそばの実)が配給された。小麦粉はパン作りに使われ、兵士1人あたり11,200グラムが配られ、穀物はカーシャ(お粥)になった。軍の遠征の途中で、兵士たちは農民から野菜や乳製品、卵を買った。軍病院では、兵士や将校たちにはオートミールやそばの実のカーシャにバターが乗ったもの、白パン、ブイヨン、半熟卵、キセーリ(とろみのある果物のジュース)などが与えられた。また鶏や魚が調理されることもあれば、イラクサまたは魚のシチーが作られることもあった。

戦時中に食べられていた料理は今も食べられている

ロシアではジャガイモを潰すとき、フランス風に濾すのではなく、擂り粉木ですり潰し、もっと簡単に調理する(牛乳とバターを加えて)。

 戦争中、ロシア人兵士たちはフランス人が変わったものを食べているのを目にした。それはキュウリにハチミツをかけたものであった。新鮮なキュウリが食べられる季節はすぐに終わってしまうので、塩漬けにしたものを遠征に持参したのである。キュウリは体に良い(消化を助け、痛風にも効く)という考えは戦争が終わってからも、引き継がれた。

 その当時、ロシア、とりわけ農民たちの間では、ジャガイモがあまり好まれていなかった。しかし食べ物が不足する時期があったことから、人々はあまり好きではない食材にも目を向けなければならなくなった。フランス人は地元の住民からジャガイモを集め、火を起こして焼いたが、そこでロシア人は初めてジャガイモのピュレーと出会うことになった。しかしロシアではジャガイモを潰すとき、フランス風に濾すのではなく、擂り粉木ですり潰し、もっと簡単に調理する(牛乳とバターを加えて)。しかしこうした方法だからこそ、ロシアのどこでも食べられるようになった。

シャルロートカはいまでも、ロシアはもちろん、世界の多くの料理に根付き、親しまれている。

 18143月、アレクサンドル1世率いるロシア軍部隊がパリに入った。そのときフランス人シェフのマリー・アントナン・カレムは「パリのシャルロートカ」というロシア風デザートを作った。アレクサンドル1世を喜ばせようと、デザートの名前は彼の弟ニコライ1世の妻であるシャルロータ・プルスカヤにちなんでつけたのだとカレムは言った。アレクサンドル1世はこのデザートの味を正当に評価し、カレムをペテルブルクに招待し、カレムはそこで数ヶ月間シェフとして働いた。「ロシアのシャルロートカ」はいまでも、ロシアはもちろん、世界の多くの料理に根付き、親しまれている。

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