ナタリア・ミハイレンコ
彼の人生は、悲劇とともに始まった。幼年時代、ツィオルコフスキーは猩紅熱にかかり、その病のあとも彼は合併症によって聴力を失った。したがって、彼は学校教育を受けることができなかった。この偉大な学者は、独学によって成ったのである。彼はきわめて早いうちに読み書きを覚えた。読み、そして発明することを何よりも彼は好んだ。彼はいつも一日中読書をし、そして発明のための工夫を考えることにふけっていたのだった。旋盤や小さな家、錘のついた時計、おもちゃの車といったさまざまなものに。
聴覚障害にもかかわらず、まったく彼はそれにめげることはなく、むしろその逆であった。ツィオルコフスキーは初恋のとき、女の子にかくのように書き送っている。「ぼくは過去にも未来にもいないような、偉大な人間です」。彼の自己評価は、すでに完璧なものだったのだ。
16歳で彼は勉強のためモスクワへ上った。月に10ルーブルの生活費で食べるものにも事欠きながら、図書館に何時間も座っていた。そしてついに彼は算数教師の試験に合格することができたのである。しかし発明は止むことがなかった。無数の新しい理論について研究を行い、それらを学術誌に投稿した。最初に彼は「動揺するゼロの理論」という、人間の人生に意味はないということを示す不思議な理論を考えた。次に彼は気体に関する理論をメンデレーエフへ送った。メンデレーエフはこの若い学者を賞賛したが、メンデレーエフは彼に、このような理論は実に25年前に提唱されている、と返信した。
彼の発明は、実に毎日のことであった。短い間に彼は気球、竹馬、惑星間信号装置、太陽熱による加熱装置、室内冷房、タイプライター、新しい度量衡や全言語に対応する新しいアルファベットまで考案した。こういったもので彼は特許をとったが、彼に特許料が払い込まれることはなかった。あるとき、500ルーブルを彼に払い込もうとした人がいたのだが、郵便配達は彼の住所を見つけることができなかった。やはり彼にお金が払われることはなかったのである。
ツィオルコフスキーは30歳で、期せずして作家になった。月に関する学術的なファンタジー小説を書いたのである。しかも、その小説はまるで自身が月へ行ったことがあるかのように詳細なものだった。ガガーリンは後に、自分が宇宙で見たものは、ツィオルコフスキーが書いていたことと本当にそっくりであったと語っている。また、無重力状態についても彼はその著書のなかで詳細に書いている。果たして、彼はいったいどこからそんなことを知ったのであろうか?
本気で彼の言説を受け入れるひとなどなく、彼は都市の変人と見なされていた。彼もまた自ら奇人として振る舞っていた。自分の収入を、彼はすべて本と試薬のために使っていた。紙の凧を子供たちと一緒に揚げたり、傘をもってスケートをしたりもした。スピードを増すために傘をもって風に乗るように滑ったのであった。農民の馬が彼の傘に驚いて飛び退き、罵声を浴びせられたりもしたが、ツィオルコフスキーは気にしなかった。彼は耳が聞こえなかったので、その罵声も彼には意味がなかったのである。
ツィオルコフスキーは、無機物にも魂があると信じていた。有機物も無機物も、それは同じであった。死は存在せず、宇宙は単一のものであり、世界の間に境界は存在しない… ツィオルコフスキーの驚くべき哲学は、ときに戯言のようであったが、ときに天才的な洞察力でもあった。たとえば彼は、人間にとって理想的な幾何学的形状は球であると説いた。したがって、未来の人間は球形をとるに違いない、と考えたのである。また彼はクローン技術をも信じていた。天才から天才へ、賢人から賢人へ、このようにして人間の知は磨かれていくのだろう。
しかし、もしも彼がその奇行や、独学の哲学だけを披露していたとしたら、今の時代のいったい誰が、ツィオルコフスキーを受け入れられただろう? 彼はいくつか、実際に根源的なアイデアを作り出したのである。地球の人工衛星、多段式ロケット、原子力機関… 驚くべきことに、これらすべてはゼロからつくられたのである。それらのアイデアを実現し得るいかなる学術的ベースもなければ、いかなる希望もなかったのに。最初の飛行機がつぎつぎと失敗すると、彼はこのように書いた。「私は惑星間旅行が現実味を帯びてきたことを確信した。英雄と冒険家が、最初の航空路線をつくるだろう。地球から月、地球から火星、さらには、モスクワから月、カルーガから火星へと」
ツィオルコフスキーは門人たちに、天使たちと会話をしたと打ち明けてもいた。彼の考えによれば、天使とは、最も高度な、人間よりももっと完全な知的存在であった。人間は将来、この天使のようになっていくべきものだと彼は考えていた。来る将来、人間は宇宙と一体となり、また不死の存在になるとともに、宇宙のエネルギーへと変化すると。
彼はカルーガの街を、世捨て人のような格好で歩いていた。ときに地面に座って、また木の幹を背に寄りかかっては、長い間何か考え事をしていた。端から見ると、彼はどこか他の世界からの使者か、あるいは何らかの間違いで1920年代のロシアに姿を現した、未来の人間のようであったという。
死後、彼はソ連の宇宙飛行の父と呼ばれるようになった。彼の構想は、偉大なロケット設計者であったセルゲイ・コロリョフに受け継がれ、発展することになる。もちろんコロリョフは、あるいはツィオルコフスキーがいなかったとしても、偉業を成し遂げたかも知れない。すべては、学者たちによって新たにつくりだされたものである。しかし彼らが「学者」であったのに対し、ツィオルコフスキーは「空想家」であった。「空想家」ツィオルコフスキーなしには、彼ら学者たちは何をもなし得なかったかも知れない。学者は数多あれど、天才的な空想家は少数である。それも、天使と、彼らの言葉で話すことができるような空想家となれば。
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