ブラッターFIFA会長が語る

EPA撮影
 ゼップ・ブラッター国際サッカー連盟(FIFA)会長は10月8日に、FIFAの倫理委員会により90日間の活動禁止処分を科せられ、実質的に解任の形となった。ロシアNOWは、スキャンダルの渦中にある同氏のタス通信へのインタビューを抜粋してお届けする。

「危機はプラティニ氏の個人的怨恨が発端」

 2012年から既に、欧州サッカー連盟(UEFA)は、私がFIFA会長の職にとどまることを望んでいなかった。これはFIFA会長に向けられた計画的行動だったが、にもかかわらず、すべての連盟は私を支持しており、UEFAだけが私を追い落とそうと試みていた。が、それは不成功に終わり、この“情報の津波”の後でさえ、私は会長に再選された。

 このアンチキャンペーンに誰が加わっていたか、思い出してほしい。欧州連合(EU)の政治家達だ。欧州議会は二度にわたり、ブラッターを再選すべからずとの勧告決議を採択した。これはもう、政治のスポーツへの直接介入だ。

 しかし最初は、攻撃目標は私だった。すべては、ミシェル・プラティニUEFA会長の画策だった(プラティニ氏も同じく、一時的に活動禁止処分となっている――編集部注)。

 

「FIFAは潰せない」

 これが政争に発展したのは後のことで、FIFAワールドカップ開催権を得られなかった国が、FIFA潰しキャンペーンに加わった時だ

(2010年FIFA実行委員会において、ロシアは、2018年W杯の開催権をイングランドと争い、またカタールは、2022年W杯開催権をアメリカと争い、それぞれ獲得している――編集部注)。

 だが、FIFAは潰せない。これはスイスの銀行や普通の会社とは訳が違うから、こんな方法では“乗っ取る”ことなどできない。それらの国は、スイス政府と一緒になって、FIFAとその会長に攻撃をしかけた…。

 その結果、W杯とFIFA会長が、二大国際政治勢力の対立する震源地となった。

 

「2022年W杯開催地は米国になるはずだった」

 当時、FIFA内部では、W杯の一つはロシアで開催されるという確信があった――東ヨーロッパではこれまで行われたことがなかったから。一方、2022年W杯の開催地と目されていたのは米国だった。そうなれば、世界の二大政治勢力がそれぞれW杯開催を獲得することになった訳で、万事うまくいっていた。ニコラ・サルコジ仏大統領が、カタールの太子(現在は首長のタミーム・ビン・ハマド・アール=サーニー――編集部注)と会見するまでは。

 この会見の後でサルコジ大統領は、2022年W杯をカタールでやるのは悪くないのでは、とプラティニ氏に言った。で、W杯はカタールで開催すべしということになった。これが、すべてのカードをごちゃ混ぜにすることになり、欧州の4票は、米国からカタールに流れた。

 こんなことがなければ、米国は12対10で、開催権を手にしていたろう。我々は2つの素晴らしいW杯、つまり2018年のロシア大会と2022年のアメリカ大会に向けて、準備していく計画だったのだ。ところが、そのかわりに、我々はFIFAの危機について語る羽目となった。

 

「私は2014年に辞めるはずだった」

 とはいえ、今はもう何かを残念がるような時期ではない。いまさら何も変えられないのだから。私は2014年のブラジル大会の後、勇気をふるって辞任せねばならなかったが、5つの連盟のうち4つが会長職にとどまるよう説得した。それらの連盟は、欧州の人間が会長になって、UEFAが世界のサッカーを、その金も選手も牛耳ることを恐れたのだ。こういう状況では、私には選択の余地はなく、残ることにした次第だ。

 

「イングランドは劣等生みたいに振舞った」

 ロシアがW杯を失うことはない。FIFA はこの国を開催地としてはっきり定めており、いかなる変更もない。

 イングランドは、劣等生さながらに振舞った。なるほど、彼らはこの素晴らしいスポーツを考案し、フェアプレイの原則も創ったが、早くも第1回投票で、わずかに2票を得たのみで去った。誰もイングランドで開催したいとは思わなかった訳だが、彼らは私に罪をなすりつけようとしている。

 

「困難な時、プーチンはいつも私を支えてくれた」

 あるとき私は、W杯のロシア開催のことで、プーチン大統領と会ったことがある。彼は、ロシアが開催権を獲得することを切望しており、それは可能か、と私に尋ねた。私は可能だと答えた。それは、各大陸での開催のローテーションというコンセプトにも適合したし。困難な状況では、私はいつもプーチン大統領の全面的な支援を得た。それは私には大いに助けになった。私もまた、それに関して議論が生じた場合はいつも、彼を支持した。

 

「2018年までにロシア語をマスターすると約束する」

 1973年、私はモスクワで開催されたユニバーシアードを訪れた。その次にモスクワを訪問したのは、1980年の夏季五輪の時だ。以来、私には当地にまつわる思い出がたくさんある。クレムリンでブレジネフにも会ったが、やっと動ける状態で、ローラースケートで滑ってるみたいだった。ゴルバチョフ時代の禁酒法も覚えている。ロシアサッカー連合会長だったヴャチェスラフ・コロスコフ氏とバーニャ(蒸し風呂)に入ったのも覚えている。私はロシア語の勉強を始めたが、残念ながら、私は外国語は聞いたり話したりするより、読まねばならない場合が多いもので…。スペイン語、ポルトガル語、ドイツ語、フランス語は問題ないが。私はなまりながらロシア語を話すことはできるけれど、キリル文字を読むなんて不可能だよ!でも、2018年のW杯までにはマスターすると約束する。

 

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