アカデミー賞に22回もノミネートされたロシア人作曲家

Bettmann/Getty Images
クエンティン・タランティーノの『イングロリアス・バスターズ』のオープニングタイトルで、メランコリックな音楽が流れる。アメリカン・クラシックの愛好家なら、それが1960年の『アラモ』のメインテーマだとすぐに気が付くだろう。しかし、作曲者がロシア人のディミトリ・ティオムキンだと知る人は多くない。

「野良犬」に通った天才児

 ティオムキンはまさに天才児だった。ポルタヴァ県に生まれ、13歳でサンクトペテルブルク音楽院に入学した。同時に映画の伴奏のアルバイトをし、偉大なバレリーナのタマーラ・カルサヴィナの伴奏も務めた。夕方になると、ボヘミアン芸術家たちが集う名高いカフェ「野良犬」に通った。

 ティオムキンは回想録で、「この場所では、笑いと無鉄砲を添えた教育が受けられた。我々は新しい、現代的なアイディアや、新機軸や実験に触れることができた」と書いている。

 ティオムキンが作曲家セルゲイ・プロコフィエフと知り合ったのも、このカフェである。

 革命後、ティオムキンは実験的作品作りに没頭した。6千人の役者が参加した、冬宮奪取を扱った巨大スペクタクルにも楽曲を提供している。画家のユーリー・アンネンコフは、「彼の創造と統率のエネルギーは無尽蔵かつ非常に生産的で、スペクタクルの創作者と参加者を鼓舞するものだった」と回想している。

西部劇のサントラ

 1921年、ティオムキンは父親の暮らすベルリンへ移住。後に移り住んだパリで、オペラ歌手フョードル・シャリャーピンから、アメリカ行きを勧められる。このアドバイスが、ティオムキンの人生を変えた。

 1920年代末からアメリカで映画用に作曲を開始し、さらにフランク・キャプラ監督と知り合ったことで、キャリアは加速した。2人が初めてタッグを組んだ映画『失はれた地平線』で、ティオムキンは初めてアカデミー賞にノミネートされる。

 その後、ノミネートは20回以上に及んだ。

 毎年のクリスマスに悲喜劇映画『素晴らしき哉、人生!』が放映されるのがアメリカの恒例だが、この映画で流れるのも、ティオムキンの楽曲である。

 ティオムキンのフィルモグラフィーは約40年にも及び、音楽を担当した映画は120作を超える。西部劇、ロマンティック・コメディ、フィルム・ノワール、戦争映画、ドラマやサスペンス・・・あらゆるジャンルの作品をサウンドトラックで盛り上げた。遠い異国で生まれ育った彼が、どうしてあれだけ西部劇映画にマッチした楽曲を作れるのか問われると、ティオムキンは「草原に変わりはない」と笑ったという。

 1940年代に入ると、アルフレッド・ヒッチコックとタッグを組むことが多くなり、『疑惑の影』、『見知らぬ乗客』、『ダイヤルMを廻せ!』で音楽を担当した。

 ジョン・ヒューストン、ウィリアム・ワイラー、ハワード・ホークス、ジョン・ウェインらの作品にも、ティオムキンの音楽が欠かせなかった。

 1953年、アカデミー賞にノミネートされたティオムキンは西部劇『真昼の決闘』の音楽と、作中の歌曲『Do Not Forsake Me』で、計2つのオスカーを受賞した。数年後には、ジョン・ウェイン主演の『紅の翼』で、ふたたびアカデミー賞に輝いた。

 1959年には、映画化されたヘミングウェイ原作の『老人と海』でアカデミー作曲賞を受賞。ティオムキンの音楽によって、主演のスペンサー・トレイシーは作中であたかもシンフォニーのソリストのようであったと、批評家は絶賛した。

『チャイコフスキー』のサントラ

 ソ連の人々も、恐らくそうとは知らず、ティオムキンが制作に深く関わった映画を見ている。その1つが、作曲家ヨハン・シュトラウスをあつかった有名作『グレート・ワルツ』で、ティオムキンはシュトラウスの曲の編曲を担当している。

 もう1つのヒット作、グレゴリー・ペックとオマル・シャリーフが主演した『マッケンナの黄金』(ソ連では6000万人以上が鑑賞した)は、ティオムキンがプロデュースした作品である。

 1960年代末、ティオムキンは数十年ぶりにソ連を訪れた。今度もまた、音楽に導かれた旅であった。目的は、モスフィルム・スタジオが制作していた映画『チャイコフスキー』のサウンドトラックの作曲である。本作で彼は、生涯最後となる、22回目のアカデミー賞ノミネートとなった。1979年11月、ティオムキンは死去した。

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