サンクトペテルブルクの社交界では、フェリックス・ユスポフ(1887~1967年)は、極めてエキセントリックで、無鉄砲な悪ふざけや山師的冒険に走りやすい人物として有名だった。こういう人々については、後に映画が作られるようになり、彼をネタにしたそれも実際に撮られた。メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)が製作した映画は大いに話題を呼び、アカデミー賞脚本賞にノミネートされ、批評家からも賞賛された。しかし、ユスポフとその妻には、映画は気に入らなかった。そして、このロシア人亡命者夫妻は、ハリウッドにとって悪夢となった。
ユスポフ家は、ロシア帝国最大の富豪の一つで、膨大な領地、複数の宮殿、不動産、工場の所有者であり、家族伝来の豪奢な宝飾品コレクションをもっていた。4世紀にわたって、ユスポフ家は、軍司令官、枢密顧問官、総督、大臣、パトロンなどを輩出してきた。ところが、一言で言えば、この名門の名声とその地位が、20世紀初めに、若いフェリックスによって急速に揺らぎ始めた。
兄が、不倫相手の夫との決闘で亡くなると、フェリックスは、巨万の富の唯一の相続人となったが、同時に、家族のスキャンダルや世間のゴシップの主たる原因であり続けた。親族からは、しばしば「一家の恥」と言われていた。
ユスポフ一家
Daniil Asikritov / State Museum-Estate "Arkhangelskoye"たとえば、17歳のとき、彼は単なるお遊びで、女性のドレスを着て、化粧をし、サンクトペテルブルクのシックなキャバレーで、これ見よがしに振舞った。そんなパフォーマンスを7回やってのけたときに、観客のなかにいた彼の知人が、ユスポフ家のダイヤモンドを見て、フェリックスと分かった。
1909年、彼はオックスフォードに留学したが、イギリスで3年間過ごすうちに、悪魔崇拝者という評判が立った。黒い絨毯を流行らせ、ギリシャのクリストフォロス王子誘拐事件では、危うく主要な容疑者になりかけた。また、深夜に忘れっぽい老婦人から牛を盗もうとして(実は彼は、前日にちゃんとその牛を買っていたのだが)、銃弾を浴びせられた。英国社会にはなじみのない酒池肉林の大宴会を催した。
ユスポフ宮殿
Public domainしかし、ロシアに戻ると、フェリックスは、名家の唯一の跡継ぎとして自分に課せられた責任を自覚し始める。彼は、政治問題について考え出した。そうして29歳のときに、陰謀すなわち皇帝一家のお気に入り、グリゴリー・ラスプーチンの暗殺を思いついた。周知の通り、フェリックスの証言によると、1916年にこの計画は、成功裏に実行された。フェリックスは、青酸カリによる毒殺が未遂に終わると、自ら僧の胸を撃ったという。
グリゴリー・ラスプーチン
Public domain「私は最終的に確信した。ロシアのすべての悪とすべての不幸の根源は、彼の中に潜んでいる。ラスプーチンがいなくなれば、皇帝と皇后がその手に落ちた悪魔的な勢力も消えるだろう、と」。ユスポフは回想録でこう振り返っている。
この点で彼は間違っていた。殺害は帝政存続の助けにはならなかった。1917年の10月革命後、ユスポフはまずイギリスに、次いでフランスに逃れた。
フェリックスは、しかし、ラスプーチン暗殺の罪を免れた。事件の2年前、彼は、皇室の血縁である公女、皇帝ニコライ2世の姪であるイリーナ・ロマノワと結婚していた。皇帝一家は、お気に入りの暗殺に激怒したが、皇室の一員を厳罰に処するのは無理だと考えた。さらに、多くの人々がユスポフを支持していた。彼らは、ユスポフがロシアの利益のために行動したと思っていたからだ。
フェリックス・ユスポフとイリーナ・ユスポワの夫妻は、同家伝来の宝飾品とレンブラントの絵画2枚だけを携えてロシアを去ったが、これだけでも、従来の勝手気ままな暮らしを保つに十分だった。さらに夫妻は、亡命者たちを経済的に支援し、ロンドンでは慈善活動に没頭した。
イリーナ・ロマノワとフェリックス・ユスポフ
Public domainしかし、二人のフランス生活は、1930年代になると暗転した。世界中でロシア人への同情はどんどん冷めていき、お金は見る見る減っていった。夫妻は、宝石は質に入れ、レンブラントは米国の美術収集家ジョー・ワイドナーに売らなければならなかった。
この頃までに、ユスポフ家はすでに、ファッションハウス「IRFE」をオープンし、香水の製造を始め、レストラン事業を立ち上げていたが、もはやかつての経済的豊かさからは程遠かった。フェリックスが、慣れ親しんだ豪華なディナーの代金を支払えずに、パスポートを見せてその場を切り抜けることもあった。名門の一員は、金を払わずに食事できたからだ。
しかし、幸運が彼らに微笑みかける。1932年、MGMスタジオは、ジョン・バリモア主演の映画『ラスプーチンと皇后』(邦題は『怪僧ラスプーチン』)を公開した。ユスポフ夫妻はこれを不快に思い、スタジオをロンドンの裁判所に訴えた。
虚偽の情報の流布、侮辱、中傷。ユスポフ夫妻は、ハリウッドのスタジオに対して、法廷でこういう申し立てをした。 この映画では、ラスプーチンの台頭と死の物語、そして皇室および支持者たちとの関係が描かれていた。
ラスプーチンは、パーヴェル・チェゴダエフ公爵なる人物によって殺されるが、そのモデルがフェリックス・ユスポフであることは、誰の目にも明らかだった。しかし、本物のユスポフ家を激怒させたのは、このことではない。フェリックスは、自分が犯した犯罪を隠さなかった(以前に彼は、暗殺に関する本『ラスプーチンの死』を書いてさえいた)。
映画の筋では、公爵の婚約者、ナターシャ公女は、ラスプーチンにレイプされ、愛人になっていた。フェリックスは、妻イリーナの名誉が傷つけられたと考えた。彼女との類似点は明らかだったからだ。ちなみに、当初の台本では、登場人物の名前もそのままだったが、撮影中に架空の名前に置き換えられた。
訴訟を受けて、MGMスタジオは謝罪した。ナターシャ公女は架空の人物であり、イリーナ・ユスポワ公女とは何の関係もない、と公に述べた。しかし、陪審員はユスポフ夫妻を支持し、スタジオ側を有罪と認め、2万5千ポンドの支払いを命じた。
また、MGMは、この映画の配給許可に対する補償金として、さらに高額の7万5千ポンドを支払ったが、公女が出てくる侮辱的なシーン(約10分)はカットを強いられた。罰金の総額――10万ポンド――は、現在の価値に換算すると約300万米ドルに相当する。これは、ユスポフ家にとっても大金で、快適な生活を保証してくれた!
まさにこの裁判の後、今日に至るまでハリウッドの映画や書籍には、次のような免責事項が記されている。「作品内の名前や出来事はすべて架空のものです。実在の人物や出来事との類似点は単なる偶然です」
その後フェリックスは、最晩年の1965年に「同じカードを切ろうとして」、CBSに対して150万ドルを請求する訴訟を起こした(再び名誉毀損のかどで)。CBSが放送したホラー映画『怪僧ラスプーチン』について、「ラスプーチン暗殺をめぐるエピソードが事実に基いていない」というのが、フェリックスの言い分だった。しかし、彼はこの戦いに負けた。日本風に言えば、柳の下に二匹目のドジョウはいなかった。
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