脚本を書いたのはストルガツキー兄弟。彼らのSF中編『路傍のピクニック』(邦題『ストーカー』)が原作である。原作小説は長い間、映像化は不可能だと思われていた。映画というフォーマットに変換するには、あまりにも多層的な意味を含んでいるからだ。しかし、アンドレイ・タルコフスキーがこの作品に取り組んだ。その独自の作風で映画監督として既に有名になっていたが、SFファンではなかった。むしろ、彼はロシア文学の古典を好んでいた。そのため、プロットとキャラクターを大幅に変更し、SFだった原作は、人間の欲望の危険性を描く哲学的寓話となった。
1980年のカンヌ映画祭でエキュメニカル審査員賞を受賞し、アメリカ、フランス、ドイツでは上映した映画館が超満員となった。『ストーカー』はセンセーションを巻き起こし、タルコフスキーは一気に世界的な映画監督たちと肩を並べる存在となった。
撮影はエストニア・ソビエト社会主義共和国のタリン近郊で行われた。当初の予定では、現在のタジキスタンのイスファラで撮影されるはずだったが、現地で発生した地震のために計画が変更された。結果として、SF映画の視覚効果の進化を促した可能性もある。
キューブリックの『2001年宇宙の旅』が宇宙の映画的表現をもたらしたとすれば、『ストーカー』は灰緑色のポストアポカリプス的情景をもたらした。作中、文明はすでに滅び、ゾーンと呼ばれる隔離地域が残されている。その危険な区域に、登場人物たちが向かう。
ゾーンは様々な罠や謎に満ちているが、不思議と、その光景は心地良い。映画冒頭に登場する街とは対照的だ。タルコフスキーは意図的に、街を不愉快な黄灰色で表現した。緑色の風景、苔に覆われた電柱、滝・・・ゾーンの自然はあたかも野生化し、その原初の美しさを取り戻したかのようである。監督が駆使した視覚的テクニックにより、ゾーンは他の何とも比較できない、魔法的な場所のようなイメージを持った。
だが、これは困難な作業だった。いくつかの回想によると、タルコフスキーは画面に収まる草の色や長さの指定に至るまで、撮影現場の全てを執拗なまでにコントロールしたという。
『映画の準備に一生を費やし、撮影には2年を使った』
『ストーカー』撮影の困難を、タルコフスキーはこのように語った。事実、『ストーカー』はタルコフスキーがソ連で制作した最後の作品になり、また同時に、その創造力の集大成でもあった。
タルコフスキーはその全キャリアを通じて、超越的なもの、そして人生の意味の探求を続けた。作品において神と、世界における人間の立場を問い続けた。『ストーカー』もまた、そうしたテーマに、信仰という観点から取り組んでいる。
しかしタルコフスキーはむしろ、別の面でよく記憶されている。彼が好んだ、そのまったく独自の、スローなテンポである。カットの切り替えを最小限に抑え、風景を映しながら登場人物にモノローグを語らせ、会話の無い長い沈黙を差しはさむ。
映画評論家のロジャー・イーバートは、タルコフスキー作品の瞑想的な語りを分かりやすく解説している。イーバートいわく、タルコフスキーに特有の長回しは観客を楽しませるためではなく、作品世界に吸い込むためであるという。
『ストーカー』の影響は、今でも多くの映画で垣間見ることができる。瞑想的なストーリー展開を模倣する試みもあれば、ナタリー・ポートマン主演の2018年の映画『アナイアレイション』のように、ストーリーラインをほぼそのまま借用したケースもある。
映画界以外にも、『ストーカー』は影響を及ぼした。タルコフスキーの創造的アプローチはゲームの『S.T.A.L.K.E.R.』シリーズや、ドラマシリーズ『チェルノブイリ』など、多くの作品に活かされている。エストニアの片田舎でタルコフスキーが創造した、灰緑色の危険なゾーンが無ければ、その後のポストアポカリプス世界の設定は全く違ったものになっていただろう。
この映画の公開から6年後、ソ連史上最悪級の事故が発生した。チェルノブイリ原発事故である。原発周辺には隔離地域となるゾーンが設定され、年月を経て、そこにストーカーと呼ばれる探検者たちが、不思議な物を探し、ツアーを率いるなどして、入り込むようになる。映画の中と、同じだ。
ストルガツキー兄弟の小説とタルコフスキーの映画は、悲劇が起きた後の世界を描写する言語を世に送り出したのみならず、1986年に世界を震撼させた原発事故のその後の風景と独自の環境を予見して見せたのである。
チェルノブイリ事故はソ連末期の象徴の1つとなり、同時に、映画『ストーカー』もまた、ソ連末期を映画芸術に反映させた作品となったのである。
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