モスクワに残っている最古の建築は、有名な聖ワシリイ大聖堂、モスクワのクレムリンの聖堂群、そしてかのアンドレイ・ルブリョフのフレスコ画が残る15世紀のアンドロニコフ修道院である。ピョートル大帝以前の時代のものとしては、邸宅が何点か残っている(16~17世紀の貴族ロマノフ家の邸宅や、15~17世紀の旧英国館など)。
ピョートルが帝位についてから西欧の影響が強くなり、それは建築分野にも反映された。ヨーロッパのバロック様式はロシアのウゾロチエ様式と合わさって、ユニークなモスクワ・バロック様式となった。この様式は今でも、名家が自分達のために建設したモスクワや周辺の多くの教会に見られる。
バロック様式の過剰な装飾に疲れた頃、建築家たちはゴシック様式に挑戦し始めた。尖塔アーチや高く伸びた尖塔は当初、ロシアの美観にはそぐわないと思われたが、やがて流行し教会建築にも取り入れられた。
ヨーロピアンスタイルが席巻した時代を経て、19世紀末のアレクサンドル3世の治世にはロシア的な潮流への回帰がトレンドとなった。ネオ・ロシアスタイルの傑作の1つがサンクトペテルブルクの血の上の救世主教会であり、どこか、モスクワの聖ワシリイ大聖堂を彷彿とさせる。この大聖堂は、皇帝直々に設計プランを承認した。
モスクワには次々とテレム(望楼風御殿)に似た個人宅が建ち、赤の広場の古建築アンサンブルの中にネオ・ロシア様式の国立歴史博物館が建設された。
アシンメトリーな構成や、植物系の装飾、モザイクパネル、ロシア史のモチーフなど、これらはいずれもロシア・モダンを発展させてきた要素だ。19世紀末~20世紀の間に流行した、もっとも珍しい建築様式の1つと言って良いだろう。裕福な人々や美術愛好家はこぞってロシア・モダン様式の邸宅を建てた。このスタイルを代表する建築家が、高名なリャブシンスキー邸やヤロスラフスキー駅舎の設計で知られるフョードル・シェーフテリである。
ソビエト政権は建築分野でアヴァンギャルド様式を推進した。装飾を最低限に抑え、実用性を極めた構造と、大きな窓を持つ事が多いのが特徴の実験的な建築がモスクワに溢れた。ソ連アヴァンギャルド建築の主要な方向性としては構成主義があり、コンスタンチン・メーリニコフ、アレクセイ・シューセフ、ヴェスニン兄弟らが代表的な建築家として知られる。
構成主義の時代の形の実験を経て、ソ連の建築界はスターリンが好んだ古典様式に回帰した。ニューヨークの摩天楼などに代表されるアール・デコスタイルのソ連版が、ポスト構成主義である。円柱が並び、国章の装飾や浅浮彫り、彫像が特徴のモニュメンタルな様式である。形状は厳粛で、コンクリートと金属の組合せが目立つ。
やがてソ連の建築は、専門家がスターリン・アンピールと呼ぶ様式に移行していき、特に戦後の一時期に顕著な傾向となった。これは単なる古典主義ではなく、豪華で荘厳な戦勝国家の象徴的建築だった。列柱や柱廊、完全なシンメトリー、ヴォリュート、塑像、彫像、オリエル窓、装飾されたコーニス、五芒星やソ連国章の装飾が特徴である。
この様式で住宅や、河川ターミナルなどのような玄関口の機能をする建物も建てられた。そしてこうしたスタイルの頂点が、鋭い尖塔をそなえたスターリン様式高層ビルだ。
スターリンの死後は建築の過剰装飾が批判され、その後約20年間はフルシチョフカと呼ばれる規格型のパネル工法の住宅が乱立した。
経済的にも技術的にも余裕が生まれた1970年代になると、政権は再びソ連の威厳をアピールしたい欲求が強まった。こうして生まれたのが、一切の装飾を排した大型のコンクリート建築で、その巨大さと多様な形状が印象深い。
例えばそれは、「横たわる高層ビル」であったり、原子力産業の職員のために建設された舟形住宅(建物自体が原子炉を連想させるという構想だった)であったりした。あるいは、腫瘍学センターの不気味なビルもあれば、ロケットを連想させる形状のオスタンキノTV塔も、コンクリート製の巨大な基部はまさにブルータル様式である。
1990年代はロシアにとって苦しい時期で、「激動の90年代」と呼ばれ、ソ連崩壊による市場経済移行、「ニュー・ロシア人」、犯罪の時代として記憶されている。その一方で、多くの自由もあった。旧ソ連の人々には再び西側が開放され、彼らは新たなスタイルやセンスに触れようと努力し始めた。
この時期、建築分野では実験的な試みが不首尾に終わっている。モスクワ市長ユーリー・ルシコフの時代にモスクワに登場した建築の多くは、現在、しばしば悪趣味建築ランキングに入れられてしまっている。アール・デコやモダニズムや折衷主義といった過去の建築様式に立脚しつつ、ガラスや金属構造、ハイテクなどを駆使して何らかの新たな建築スタイルを模索する試みだった。
ロシア・ビヨンドのニュースレター
の配信を申し込む
今週のベストストーリーを直接受信します。