「菊作り汝は菊の奴かな」: ロシアの偉大な画家の有名な菊

 ロシアの画家たちはライラックやバラしか描かなかったわけではない。彼らは菊にも同じように心を動かされ、さまざまな手法で傑作を生み出した。印象派風のレモン色の輝き​​、夕暮れの白い結晶、東洋風の紫色の優美さなど、ロシアの偉大な画家たちによる多様な菊の花がある。

イーゴリ・グラバリ『菊』 1905 

 白いテーブルクロスの上、輝くグラスと磁器のもと、花弁の多い菊の花がレモン色に輝いている。イーゴリ・グラバリ(1871~1960)は秋の朝、モスクワ近郊のメシチェリン家の邸宅でこの明るい静物画を描き始めた。豪華な金色の花は特別にモスクワの園芸家、ノエフに注文された。普段は1週間くらいで描き上げるところを1か月以上かけて完成させた。

 この時期はグラバリが印象派と、同時に日本の版画に夢中になっていた時期であり、この作品は振動する光のシンフォニーを表現している。

 この絵はすぐに繊細なセンスを持つコレクター、ギルシマンによって高額で購入された。革命後に『菊』はトレチャコフ美術館のコレクションとなった。

ワシリー・ヴェレシチャーギン『日本女性』1903年

 ワシリー・ヴェレシチャーギン (1842–1904) は1812年の祖国戦争、露土戦争を描いた作品やトルキスタンシリーズの絵画などによって、主に戦争画家として知られている。

 『日本人女性』はこの画家の作品においてあまり知られていない側面、日本の文化に興味を持っていたことを表している。この作品は画家の日本滞在中に描かれた。ヴェレシチャーギンは日本への出発を何度か延ばし、戦争前夜の1903年8月になってやっと出発した。このせいで彼は京都、東京、日光を訪れたが、日本に3か月しか滞在しなかった。

 「日本のことわざに『日光を見ずして結構と言うな』というものがある。このことわざはある意味真実を伝えている。なぜなら、日光には本当に多くの美があるからだ。しかしこの『結構さ』を言葉で伝えることは難しい。なぜなら、日光は寺自体の線の美しさや色の調和だけでなく、背の高い杉、山々、激しく音を立てる川の流れ、緑の苔で覆われた大きな石など、寺の素晴らしさを高める環境全体から成っているからだ。これらすべてを一緒に見る必要がある。つまり、寺の一部の装飾を観賞するだけでなく、木々のざわめきや滝の轟音にも耳を傾け、観光客の団体も見てほしい」と彼は書いている。(V.V. ヴェレシチャーギン『日記より』)

 3か月でヴェレシチャーギンは20以上のスケッチを作成したが、その多くには独立した芸術的価値がある。そのうちの一つが見事な鉢植えの菊を描いた『日本人女性』だ。赤、青、金、黒の配色がオリエンタルな雰囲気を強調している。

 帰国後すぐに61歳の画家は極東の前線に戻り、そこで死を迎えた。彼は開戦直後の1904年4月13日、中国沿岸で機雷に触れた戦艦ペトロパブロフスク号とともに海に沈んだ。

ミハイル・ヴルーベリ『菊』  モスクワのE.D.ドゥンケル邸宅の三連画『花』の中央部分 1894年

 「荘厳なイメージによって日常生活の些細なことから魂を目覚めさせること」 これがミハイル・ヴルーベリ (1856–1910) による芸術家の使命の定義である。

 壮大で装飾的な三連画『花』の「バラと蘭」、「菊」、「黄色いバラ」は詩人アファナシー・フェットの姪であるエリザベータ・ドゥンケルが、モスクワのポヴァルスカヤ通りにある邸宅のために注文したものである。正面階段上の天井を飾った三連画の中央は複雑な形をした「菊」の装飾画があり、その両側にはバラの花が描かれた丸い装飾画が配置されていた。

 ヴルーベリにとって、花は永遠の美しさと自然の雄大さを象徴しており、彼の作品で花は生きた貴重なクリスタルのようだ。花弁の多い白い菊の花束が、神秘的な薄暗い空に向かって厳かに伸びている。彼のお気に入りのテーマである夜が庭を変容させ、手すりに掛けられた暗いカーテンが庭での運命の出会いといった空想を呼び起こす。

 革命の直前、『花』は銀行家リャブシンスキーのコレクションとなり、その後国立美術館の所有物となった。1927年にこの作品は芸術家の故郷であるオムスク市の美術館に移された。

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