ワシリー・ヴェレシチャーギン:誰よりも戦争を理解した画家

Legion Media、Public Domain
 ワシリー・ヴェレシチャーギンは、ロシア軍の勝利ではなく、戦争の最も醜くおぞましい側面をキャンバスに描いた。このことは人々に大きな衝撃を与え、政府を大いに苛立たせた。

 「遠く離れた所から双眼鏡で戦闘を覗いたのでは、偽りのない本当の戦争を社会に見せることはできない。自分ですべて体験しなければならない。戦闘や襲撃、勝利、敗北の現場に居合せ、飢え、寒さ、病気、怪我に苦しまなければならない。自分の血、自分の肉を犠牲にすることを恐れてはならない。でなければ、私の絵は『何か違う』ものになってしまう」とロシアを代表する戦争画家のワシリー・ワシリエヴィチ・ヴェレシチャーギンは語っている。彼は生涯この方針を貫いた。

画架の前のヴェレシチャーギン、1902年

 興味深いことに、才能ある戦争画家は、才能ある海洋画家になる可能性もあった。両親の意向でヴェレシチャーギンは海軍幼年学校に入り、1860年に優秀な成績で卒業した。だが、ヴェレシチャーギンの心は海に向いていなかった。サンクトペテルブルク美術アカデミーで教育を受けた彼は、准尉として中央アジア(当時はトルキスタンと呼ばれていた)に向かい、現地の知事の元で画家として働いた。 

『勝者』

 19世紀後半のロシア帝国によるトルキスタン併合は、平和裏には進まなかった。1868年、ヴェレシチャーギンはサマルカンド防衛戦に参加することを余儀なくされた。敵は6万人以上、ロシアの国境警備隊はわずか6百人ほどだった。この時の功績でヴェレシチャーギンは四等聖ゲオルギー勲章を受章した。

『要塞の壁の前で。「入るがよい」』

 中央アジア遠征に着想を得たヴェレシチャーギンは、トルキスタンをテーマに一連の絵画を描き、ロシアやヨーロッパの人々にとって未知の地域の伝統や生活様式を生き生きと描き出した。だが、多種多様な人々の肖像やエキゾチックな街並みを描いた作品は人々に歓喜と関心をもって受け入れられたが、戦争を描いた作品は賛否両論を呼んだ。 

『アヘン使用者』

 当初戦闘地域に向かったヴェレシチャーギンは、戦争を「音楽とはためく羽飾り、旗、大砲の轟音、ギャロップで進む馬を伴う一種のパレード」と考えていた。しかし、現実に直面した彼は、戦争が実際には苦悩、死、身体的・精神的苦痛、恐怖、残虐で野蛮な所業でしかないことを知った。ヴェレシチャーギンは戦争のありのまま――傷付き死にゆく兵士ら、死体の山、生首、疲弊し打ちひしがれた人々――を描いた。

『幸運の後(勝者)』

 無敵のロシア軍の栄光を描いた絵画に慣れていた人々は、ヴェレシチャーギンの作品を見て反感を抱き、愛国心の欠如を非難した。「彼の思想性は、国民の自尊心に反するものだ。結論は一つ、ヴェレシチャーギンは畜生か、完全に気が狂った人間のどちらかだ」と皇太子時代に展覧会を訪れた後の皇帝アレクサンドル3世は語っている。 

『致命傷』

 戦争に対する画家の姿勢を如実に示す絵画の一つが、『戦争の結末』だ。この絵には頭蓋骨の山が描かれている。当初ヴェレシチャーギンはこの絵を『ティムールの勝利』と名付けるつもりだった。だが、具体的な時代と結び付けることをやめ、「過去、現在、未来のあらゆる偉大な征服者ら」に捧げることにした。

『戦争の結末』

 「世界中を巡って現実を見るうち、私は今なお人々があらゆる口実とあらゆる手段をもって至る所で殺し合いをしていることにとりわけ衝撃を受けた。これは平和と博愛を教えとするキリスト教諸国においても繰り広げられている」とヴェレシチャーギンは語っている。 

『インドの反乱の鎮圧の際のセポイに対する砲撃』

 ヴェレシチャーギンが重傷を負い、弟を失った1877年―1878年の露土戦争の後、バルカンをテーマにした一連の絵が制作された。これらの絵画は、画家の他の作品と同じく、愛国心や虚勢を一切含まず、極めてリアリスティックで血生臭い戦いの恐怖を忠実に伝えていた。 

『シプカ・シェイノヴォ(シプカ近郊のスコベレフ)』

 「私の目の前、画家の目の前には戦争があり、私はそれを力の限り打つ。私の打撃に力があるのか、現実のものなのかは別問題であり、私の才能の問題だが、私は思い切り、容赦なく打つ」とヴェレシチャーギンはパトロンのパーヴェル・トレチャコフに宛てて書いている。

『敗者。パニヒダ』

 ヴェレシチャーギンは1812年の祖国戦争をテーマにした一連の絵画も制作した。これらの絵画の大半の主人公は、ナポレオンだ。ナポレオンと言えば、無敵の威厳ある皇帝として描かれることが多いが、ヴェレシチャーギンが描いたのは、焦燥し、悄然とし、ロシア人の思わぬ抵抗に茫然とした一人の人間だった。彼が描いたのは、アレクサンドル1世や軍司令官らではなく、フランス軍との戦いに駆り出されたロシアの兵卒や一般農民の姿だった。

『ナポレオンとロリストン元帥(「何が何でも和平を!」)』

 ヴェレシチャーギンはある時、戦争のテーマに疲れてしまった。「私は自分の描いているものを切実に受け止めている。負傷者、死者それぞれの悲しみを(文字通り)悼んでいる」と彼は1882年にウラジーミル・スタソフに宛てて綴っている。彼と妻はしばしば世界を旅し、インドや日本、中近東の平時の生活や文化をテーマとした一連の絵画を描いた。

『ヒンドゥー教徒の肖像』

 1904年―1905年の日露戦争が、ヴェレシチャーギンにとって最後の戦争となった。彼がこの戦争をテーマに絵を描くことはできなかった。彼は、開戦直後の1904年4月13日、中国沿岸で機雷に触れた戦艦ペトロパブロフスク号とともに海に沈んだ。

『1901年のスパイ』

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