坐するデーモン
Tretyakov Gallery貴族の家庭ではどこでもそうであったように、ミハイル・ヴルーベリも、子どもの頃からさまざまな芸術を学ぶ機会を与えられた。そして、絵画だけでなく、音楽にも少なからぬ時間を割き、努力した。また文学を愛していたこともあり、彼の多くの作品からは、フォークロアや神話、シェイクスピア、またゲーテ、プーシキン、レールモントフといったロマン主義の詩人たちの影響が感じられる。青年時代のヴルーベリはオペラに夢中になり、のちに、オペラの舞台のためのデッサンをいくつも残している。
ヴルーベリが、初めて、画家としての才能に注目されたのは、ある展覧会でそのコピーを目にした、ミケランジェロのフレスコ画「最後の審判」を模写したときであった。父親は絵画の教師を雇ったが、そのときはそれ以上の進展はなかった。
ミハイル・ヴルーベリ
Public Domainヴルーベリはペテルブルク大学法学部を卒業し、家庭教師として働いていたが、きわめて自由なボヘミアン的な生活を送っていた。しかし24歳のとき、美術アカデミーに入り、芸術に身を捧げると決意した。キエフの聖キリル教会の壁画の修復で初めて収入を手にし、名声を獲得した。
ヴルーベリは、その作品からも感じられるように、感情に波がある衝動的な人物であった。手を休めることなく、夢中で創作活動にのめり込み、これだというアイデアに取り憑かれたかと思えば、鬱状態に陥り、酒に溺れることもあった。彼の作品は社会から認められず、退廃的で醜悪だとされた。精神疾患に身体的な疾病が重なり、50歳のときにはほぼ車椅子での生活を強いられた。長期にわたり入院生活を送り、回復の兆しが見られたが、その後、再び、狂人とも言われるようになり、制作を断念した。ヴルーベリは1910年に死去したが、葬儀には、ヴルーベリのファンであった詩人のアレクサンドル・ブロークが挨拶の言葉を述べ、「ヴルーベリは異世界から来たメッセンジャーである」とした。それではヴルーベリの世界へご案内しよう。
ヴルーベリは、デーモンのアイデアとイメージを数年にわたり温めていた。これは、ヴルーベリ独特の「クリスタル」スタイルの最初の作品の一つである。特別なスクレーパーを用いた太い筆づかいが、絵画というよりも、モザイク画のような印象を与えている。かつて自身が仕事をしたキエフの聖堂のモザイク画によって影響を受けたとされる。また作品はミハイル・レールモントフのロマン主義的な物語詩「デーモン」が下敷きとなっている。堕天使がこの世をさまよい、安寧の場所を見つけることができずにいるというストーリーである。ヴルーベリには独自のイメージがあった。それは悪者でなく、苦しみながらも風格を持つものであった。ヴルーベリはレールモントフの詩を主題とした水彩画のシリーズを描いている。
1889年、ヴルーベリはモスクワに移り住み、そこで実業家で興行主で芸術の愛好家であったサヴァ・マモントフと運命的な出会いをする。近代的で革新的だったヴルーベリはまだ社会には受け入れられていなかったが、繊細な芸術的感性を持っていたマモントフは、モスクワの自らの屋敷の内外装をヴルーベリに依頼した。そしてその後、まもなく、ヴルーベリは他の芸術愛好家たちの間でも人気を博するようになった。ドゥンケル家の屋敷のために、ヴルーベリは素晴らしい「パリスの審判」の3部作を描いたが、なぜか発注者は購入を拒否した。
これは、サヴァ・マモントフがニジニ・ノヴゴロドの芸術産業展のパビリオンの外装のためにヴルーベリに依頼した大作。作品は、展覧会の開催まで、芸術アカデミーの委員会にも認められず、大きなスキャンダルを巻き起こした。
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サヴァ・マモントフは、「幻の王女」をモザイク画にしたものを、20世紀初頭にモスクワのボリショイ劇場の向かい側に建てられたホテル「メトロポール」の入り口の装飾としてヴルーベリに依頼した。絵画は長年にわたりボリショイ劇場の舞台装飾の保管庫に置かれていたが、2007年にトレチャコフ美術館に引き渡された。トレチャコフ美術館はこの絵画のために建物の改修工事を行い、ヴルーベリ作品を紹介するための特別な展示室を作った。
ヴルーベリは実在する人物の肖像画をあまり描かなかったが、自らの後援者であるサヴァ・マモントフの肖像画は残されている。黒色で描かれたショックを受けたようなマモントフの姿は、彼が人生で置かれたある状況のドラマティシズムを映し出している。ヴルーベリを支えた興行主のマモントフは、鉄道の敷設にからんで公金横領の罪で告発され、逮捕されたのである。もっとも後に冤罪であったことが判明するが、収入を断たれたマモントフは、有名な画家たちの作品を含め、財産を手放さざるを得なくなった。
サヴァ・マモントフの屋敷であるアブラムツェヴォでは大きな絵画サークルが作られた。ヴルーベリもこの地をよく訪れるようになり、陶器の製造を始めた。ヴルーベリのデッサンを基に、本人と助手らが暖炉のタイルやマヨルカ焼き、彫刻などの装飾品の製作を行った。その多くはおとぎ話や神話をモチーフにしたものであった。この暖炉はブイリーナ(英雄叙事詩)をテーマにしたもので、1900年にパリで開催された万国博覧会で金メダルを受賞した。このコピーが、完全にモダニズムスタイルで作られたモスクワにあるバジャノフの家のために製作された。
19世紀末、「ロシア」様式が大人気となり、ヴルーベリも、陶器や絵画の中でロシアのフォークロアを復興させる芸術家の一人となった。この絵画はフランスの作家、アナトール・フランスの「聖サティール」に感銘を受けて描き上げたが、ここでヴルーベリは古代ギリシャの神話の登場人物をロシア風に仕上げ、ロシアの典型的な風景の中に潜む森の精として表現した。
ヴルーベリはサヴァ・マモントフの私設歌劇場でのニコライ・リムスキー=コルサコフのオペラ「サトコ」の装飾を手がけた。ロシアのフォークロアを基にしたおとぎ話にインスピレーションを受けたヴルーベリは、オペラの登場人物であるサトコ、海の王、王女などのマヨルカ焼きの像をシリーズで製作した。そしてこの素晴らしい皿にはそのすべての登場人物と海の生物が描かれている。
パンと同様、この「白鳥の王女」もまた、何か世界と世界の間に存在するかのようなおとぎ話の中の登場人物である。彼女は美しい女性であり、鳥である。ヴルーベリはその変身の瞬間を捉えようとした。プーシキンのおとぎ話をモチーフにしたニコライ・リムスキー=コルサコフのオペラ「サルタン王物語」の中で、ヴルーベリの妻である声楽家のナジェージダ・ザベラ=ヴルーベリがこの役を演じた。しかしこの素晴らしいイメージに、多くの人が、ヴルーベリが結婚するまで片想いをしていた既婚女性のイメージを重ねている。
坐するデーモンを失った後、ヴルーベリは世界の上を堂々と飛ぶ「飛ぶデーモン」を描き、悲劇的に戦うデーモンのシリーズに終止符を打った。カフカスの山々をバックに傷ついた姿を描いた。ヴルーベリは精神疾患のために病院に運ばれる前にこの作品を描き上げた。その後も多くのデッサンを描いたが、またすでに製作した作品に果てしなく描き直しをした。妻は当時を回想し、毎日、恐怖心とともにデーモンの変化を見たと語っている。デーモンの顔つきが恐ろしいこともあれば、深い悲しみと新しい美しさが現れることもあったという。
レールモントフのデーモンを描き、デーモンを苦しめた後、ヴルーベリは再び、複雑なものに目を向ける。それがアレクサンドル・プーシキンの詩「預言者」の主人公である稲妻の精セラフィムである。セラフィムは手に剣を持ち、その剣で胸を突き刺し、心臓の代わりに炎の炭を入れ、預言者となり、人々の心臓を燃やしてしまうのである。ヴルーベリの精神状態はすでにかなり深刻に悪化しており、幻覚に悩まされていた。そしてデーモンを描いたときと同じように、セラフィムの表情に納得できず、何度も何度も描き直した。
最初、ヴルーベリは、虹のような真珠の色に取り憑かれ、様々な色を使ってそれを表現しようとした。海の王女が描かれたのは「偶然」で、ヴルーベリはデッサンの1枚にそれを「見た」のだと説明した。この王女が描かれたことで、貝は魔法の洞窟となった。
ヴルーベリは妻で有名な歌手のナジェージダ・ザベラ=ヴルーベリの肖像画を何枚も残している。これはヴルーベリの最後の作品の一つで、未完のままとなっている。暖炉のそばの肘掛け椅子に持たれた疲れた妻が描かれている。
ミハイル・ヴルーベリの展覧会は2022年3月8日までトレチャコフ美術館で開催中。
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