正教会の宗教的行列・行進である「十字行」とは何か:その起源と形態と意義は?

カルチャー
ゲオルギー・マナエフ
 「十字行」(じゅうじこう "крестный ход")は、東方正教会の宗教的行列・行進だ。これは、古代ロシアの儀式的な行列・行進の伝統を受け継いでいる。

 すべての正教徒は、洗礼を受けた直後に、洗礼盤の周りで最初の「十字行」を行う。しかし、大抵の正教徒は、これを大人の腕に抱かれて行うことになる。まだ赤ちゃんだからだ。

 洗礼の規則によると、洗礼盤に3回浸され、塗油を受けた後、「新たに選ばれたキリストの戦士」は、十字架を手にした司祭の後に続き、洗礼盤の周りを3回歩く。洗礼を受けたのが赤ちゃんなら、洗礼親(代父・代母)の腕に抱かれて進むことになる。

 十字行は、特別な奉神礼だ(カトリック教会の典礼に当たる)。信者たちが、神を讃え神に請い願う聖歌を歌いつつ、十字架とイコン、司祭と詠隊(ほぼ聖歌隊に相当する)の後に続いて行進し、教会、聖堂、街など、特定の場所を巡る。あるいは、それらの場所に向かって歩むこともある。この行進の特徴は、教会・聖堂の外で行われることであり、すべての人に開かれている。

十字行の起源は?

 十字行は、古代キリスト教の伝統だが、『聖書』には、この名では言及されていない。『旧約聖書』には、これに似た 3 つの行列・行進について語られている。

 すなわち、イスラエルの民が、「契約の箱」(十戒が刻まれた石板を収めた箱)を担いで7日間、エリコの街の城壁の周りを廻り、角笛を吹くと、巨大なエリコの城壁が崩れた(『ヨシュア記』6章)。

 ダビデは、エルサレムを都に定めたとき、契約の箱をエルサレムに運んだ(『サムエル記下』6章)。

 ソロモンが神殿を完成させたとき、契約の箱を至聖所に運び入れた(『列王記上』8章)。

 これらの行列・行進は、十字行の原型とみなすことができる。キリストのエルサレム入城もそうで、このとき、人々は、「ホサナ、主の御名によってきたる者に祝福あれ、イスラエルの王に」と叫びつつ、キリストに付き従った。

 十字行は、キリスト教異端の行列への反応として現れたとみられている。それは、教父、金口のヨハンネス(金口イオアン)の活動した時代(4世紀)に、コンスタンティノープルで、異端のアリウス派によって行われたものだ(*3~4世紀のアレクサンドリアの司祭アリウスは、子なるイエス・キリストが生まれた者であるならば、父なる神と同質ではありえない、という厳格な唯一神教を説いた)。

 アリウス派の行進に対して、キリスト教の十字行が確立された。それは、詩篇、(死者への)連祷、賛美歌、祈祷の歌をともなうものだ。ビザンチン(東ローマ帝国)のこの伝統から、十字行はロシア正教徒に受け継がれた。

十字行はどのような形で行われるか?

 十字行は、すべての教会に対して定められた一般的なものと、任意のものとに分けられる。一般的なものは、だから、奉神礼(カトリック教会の典礼に相当)のうちの必須のものとして行われる。

 たとえば、復活祭の十字行、神現祭(キリストが洗礼者ヨハネによって洗礼を受けたことを記念)に際しての川や湖などへの十字行、教会の成聖(聖別)式に際して教会を三回巡るものなど。
 任意の十字行は、司祭の祝福を受けて行われる。これらには、たとえば、旱魃に際して耕作地で祈祷しつつ行われるもの、聖人を記念するもの、または神からの奇跡的な救い、助けなどに際し行われるものなどが含まれる。

 十字行に要する時間は、1日で終わるケース(ほとんどの場合)と複数日かかかる場合がある。後者では、信者は何キロも歩き、夜間は止まって宿泊する。

人々を結びつける十字行

 17世紀に、十字行の方向(つまり、どちらの方向に向かって歩くか)の問題は、「古い」儀式と「新しい」儀式の支持者の間の論争において、重要な論点の一つになった。伝統的に、十字行は、「太陽に従って」つまり東から西へ、あるいは時計回りに行われた。しかし、「ニコンの改革」は、これを太陽と逆方向(または反時計回り)に変えた。これが論争の的となり、ロシア正教会の分裂の一要因になった。

 しかし、時とともに、十字行は、古儀式派(分離派)と、「改革派」の主流の正教徒とを結びつける数少ない儀式の一つになった。

 正教会が分裂したときから、古儀式派は十字行を行うこと、鐘を鳴らすこと、聖堂・教会を建てることなどを禁じられてしまった。古儀式派はもちろん、主を讃えることを止めなかったが、尊崇されてきた多くの古いイコンが、新しい聖堂の中に置かれ、古儀式派は入ることを禁じられた。だから、十字架とイコンが聖堂の外に持ち出される十字行においてのみ、古儀式派は、それらに向かって祈ることができた。

 十字行の主な意義は、『マタイによる福音書』(18: 20)において次のように言い表されている。

 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。こうキリストは言った。厳粛な行進で十字架とイコンに従う人々は、キリスト自身が彼らを霊的に導いていると信じている。

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