クマはいかにしてロシアの非公式なシンボルになったのか?

カルチャー
エカテリーナ・シネリシチコワ
 「ロシアのクマ」がシンボルとなったのは奇妙な成り行きによるものである。フェイクニュースは中世からその効果をうまく発揮してきた。

 まず最初に言っておきたいことは、クマが公式的にロシアのシンボルであったことは一度もない。ロシアの国章は双頭の鷲(紋章にも描かれている)である。しかし、少なくとも5世紀にわたって、国外では別のイメージが広まっている。ソ連は1980年に開催されたオリンピックの閉会式で、巨大なクマのマスコットを空に飛ばし、またその後、クマはロシアの最大政党のシンボルにもなった。ロシアとクマの関係を順に見ていこう。

クマの処刑と広まった噂

 クマに関する歴史の中で実際にあったことといえば、かなり古くからロシアの人々はクマに敬意を払っていたということである。異教のスラヴ人にとってクマは宗教的な意味を持つ動物であった。
 さらに、中世、数百年にわたって、ルーシでは、調教されたクマを連れた集団が旅をし、クマがダンスをしたり、簡単な技を見せたり、物乞いをしたりした。

 イワン雷帝の時代には、クマは処刑に使われた。罪人にクマの毛皮をつけさせ、犬に襲わせたのである。毛皮は中にいる罪人とともに引き裂かれた。

 しかし、世界を駆け巡ったのはこれらの恐ろしいニュースではなかった。それは、1526年にオーストリアの外交官、ジギスムンド・ヘルベルシュテインの著書に書かれていたロシアの冬についてのこんな文章である。「・・・飢えに苦しむクマが森を出て、隣接する村々に現れ、人家に入り込んだ。クマは村人がたくさんいるのを見て、襲撃から逃れようと逃げ、家の外で寒さによって命を落とした・・・」。

 そして、100年の間に、この文章は、イタリア人、ポーランド人、イギリス人、ドイツ人、オランダ人の著書の中で転記され、結果、ルーシの道にはクマが現れるというのは、至って普通のことのように考えられるようになった。そして、ロシアでは通りでクマが散歩しているという、ロシアに関する最大の不滅の神話が現れるようになったのである。

薄毛治療薬

 この話に新たなイメージをもたらしたのが、当時、狡猾なイギリス商人の宣伝である。16世紀半ばから、商人たちはロシアを定期的に訪れるようになった。そして、一般のイギリス人のロシアに対するイメージは、その商人たちが持ち込んだ品々から形成されるようになった。それは蜂蜜、皮革、毛皮、脂身、蝋。そして、かつての英国の人々がクマの脂だと信じていたものである。熊の脂が、パリのクロワッサンがそうであったように、ロシアのイメージを作った。

 商人たちは、ロシアのクマの脂を最高の薄毛治療薬だと宣伝した。根拠はあったのかというと、それはクマはかなり毛深く、遠く離れたロシアのクマの脂はとても高価だったためである。その「クマの脂」が往々にして、イギリスの豚の脂だったことは重要なことではなかった。

地理的条件

 ヨーロッパの人々にとって、ロシアとクマがつながったのは、17世紀にスモルゴンに作られた有名なクマのアカデミーである。実際、これは、ヨーロッパのサーカス用のクマの調教を行うための民間の学校であった。この学校は、スモルゴンはポーランド・リトアニア共和国にあったのだが、一般のヨーロッパ市民は地理的に詳しくなく、誰もがこれはどこか東の方・・・ロシアにあると考えていたのである。

 そこで、イギリスが19世紀に政治風刺画やイラストで、ロシアをクマの姿で描くようになったのも不思議ではない。そしてそのイメージは他の人々の間にも広まっていった。アメリカとの冷戦では、クマは厳格で血気盛んなソ連政治の隠喩となった。

オリンピックのミーシカ

 このクマのシンボルをロシア人自身は気に入っていたのだろうか?クマはそれほど注目されていなかったからである。しかしヨーロッパにおけるクマの人気は非常に高く、ソ連政府は、なんとかクマのネガティヴなイメージをポジティヴなものにしようと試みた。つまりクマは勇敢で、強くて、忍耐力のある動物でもあるという側面を広めようとしたのである。そしてクマはオリンピックのマスコットに選ばれるのである。
 ミーシカが1980年のモスクワオリンピックの閉会式で、数百個の風船と共に空に舞い上がったとき、テレビを見ていた多くの人々が涙を流した。

 そして、ソ連邦解体後、クマはロシアの国章の候補にもなったが、結局はロシア帝国のシンボルであった双頭の鷲に軍配が上がった。しかし、2000年代の初頭、クマは政党「統一ロシア」のシンボルに選ばれている。

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