ノーベル文学賞を受賞した詩人ヨシフ・ブロツキーはどんな人:7つのQ&A に整理した

カルチャー
ソフィア・ポリャコワ
  詩人ヨシフ・ブロツキーはどんな人だったか?なぜ彼はロシアの大詩人とみなされているのか?

 詩人の内面の自由感といかなるシステムにも甘んじない気質は、彼が人間存在の重要な問題について語るうえで、まったく新たな方法を生み出すのを促した。

1. ブロツキーは何によって有名か? 

 ヨシフ・ブロツキーは、詩人、エッセイスト、翻訳者だった。彼の詩は、根本的に新しい言語によって際立っていた。この詩人のテーマとスタイルは、ソビエト国家との「不協和」、対立の要因となった。彼は、マスコミで弾劾され、「寄生的な生活」により告発されて、流刑を宣告される。作品は出版されず、彼は後にソ連を去った。

 海外で有名となり評価されたブロツキーは、アメリカのいくつかの大学で教鞭をとり、1987 年にノーベル文学賞を受賞した。その受賞理由は、「思考の明快さと詩的な力強さが一体化した、包括的な作品群に対して」。 

2. ブロツキーの生い立ちと少年時代は?

 ヨシフ・ブロツキーは、1940 年 5 月 24 日に生まれた。独ソ戦(大祖国戦争)の勃発の1年前だ。未来の詩人の母親は会計士で、父親はフォトジャーナリスト。一家はレニングラード(現サンクトペテルブルク)に住んでいた。

 1941 年 9 月 8 日、レニングラード攻囲戦と都市の封鎖が始まったが、最初の冬の後、1942 年 4 月に、幼いヨシフと母は(父は 1941 年に戦線に召集された)、チェレポヴェツ(ロシア北部にあり、モスクワから約 500 キロメートル)に疎開した。レニングラードの封鎖が解かれた後、故郷に戻る。

 ブロツキーは、学校の7年生までしか修了せず(当時の最小限の義務教育だった)、8年生の初めに学校を去り、旋盤工の見習いとして工場で働き出した。詩人自身は後にこれを、「自分の人生で最初の自由な行為だった」と振り返っている。

 詩人、エッセイストでブロツキーの友人でもあったレフ・ローセフは、友の幼年時代についてこう語っている。「過度に感じやすく、口論、争いはおろか、ふだんの暮らしのなかで感情が高ぶる状況にさえ耐えることができなかった。たとえば、感情の過多のせいで、家族での休暇の最中にいきなり飛び出し家出することさえあった」。ブロツキーはこれを振り返って、「気持ちが切れたのさ」と言った。 

 ブロツキーは幼い頃から読書を好んだが、読んだのは散文だった。彼が詩に興味をもち出したのは、意識的な生活が始まる青少年期だ。彼は、母の助言で、16歳のときに初めて詩集を読んだが、学校では自分はカリキュラムの域を出なかったと言っている。17歳になる頃には、彼は絶えず詩を読んでおり、間もなく自分の詩的な才能に気づく。この齢で彼は、自身の有名な詩の 1 つ「さらば」を書いた。 

3. なぜブロツキーは国家と揉めたのか?

 詩人の行動と作品は、ソ連の社会的、倫理的規範と一致しなかった。彼はしばしば仕事を変えた。工場で働いた後、彼は死体安置所の助手、浴場のボイラーマン、灯台の水夫などとして働き、地質調査にも出かけた。

 しかも彼は、地下出版(サミズダート)で作品を発表し、「非公式」の人物と付き合った。ソ連の観念によれば、正常な労働者には理解できない「反社会主義的」な詩を書いていた。

 とはいえ、ブロツキーは実際のところ反体制派ではなかった。彼はソ連の体制と権力を批判せず、その転覆を呼びかけたわけでもなかった。彼の立場はむしろ「孤立した無抵抗」だった。ブロツキー自身の言葉によれば、「党があろうとなかろうと、私にはどうでもよい。私には、善と悪しかない」

 だが、「非体制的」でノンポリであることが、迫害の十分な動機になった。1963年、ヴェチェルニー・レニングラード(レニングラードの夕べ)紙は、ブロツキーの詩を厳しく批判する記事を載せ、ブロツキー自身を寄生虫呼ばわりした。間もなく彼は、「寄生」の罪で法律によって裁かれて有罪判決を受け、ロシア北部のアルハンゲリスク州・ノレンスカヤ村に流刑となった。 

4. なぜブロツキーはソ連を去ったか?

 1965年に流刑先から戻ると、彼は、自分が半ば「法の外」に置かれていることに気づく。彼の作品は出版されず、作家同盟には受け入れられず、さりとて、他の仕事にも採用されなかった。そのため、彼は、翻訳と子供向けの詩でどうにか糊口をしのぐ。

 その一方で、海外でブロツキーは知られるようになり、1970年には『荒野の停留所』 ("Остановка в пустыне") と題された本がニューヨークで出版された。これには、ブロツキーの詩、長編詩、翻訳が収められていた。

 この本は、詩人の原稿をソ連から密かに持ち出した外国の友人の助けを借りて出版された。ブロツキーは、海外の知己がますます増えていき、イタリア、イギリス、チェコスロバキア、イスラエルから招かれ始める。

 ソ連当局は、言動が予測不可能な詩人を追跡する代わりに、出国を許すことにした。ブロツキーの述懐によると、彼は、この機会を活かさなければ「熱い日が来るだろう」と仄めかされ、去ることを余儀なくされた。結局、ブロツキーは同意し、1972年にウィーンに向けて出発し、そこから後に米国に移った。

5. ブロツキーは何について、そしていかに書いたか?

 「…ヨシフ・ブロツキーの悲しい形而上学をパラフレーズすることなど不可能だ。それは、人間の誇りについての倫理的、実践的な結論にすぎないのだろうか。とすれば、実に平凡極まりないではないか。彼の人格は、マイナス 1 の根のごとき虚数だ。…悲しい謙虚さこそが、ブロツキーの『最後の言葉』だ」

 ブロツキーの詩について文芸評論家サムイル・ルリエはこう書いている。彼は、この詩人の作品の主なライトモチーフは「自由」であり、それが「疎外」に変わっていくと考えた。以下は、1976 年に書かれたブロツキーの詩の 1 つだ。

 

「私は気が狂ったわけじゃない。でも、夏のせいで疲れ果てたよ。

箪笥でシャツをごそごそ探しているうちに、一日が終わってしまう。

いっそのこと早く冬がやって来て、雪で覆われるがいいさ――

街も人々も、そして何より先に木々の緑が覆われろ。

私は服も脱がずに寝たり、他人の本を拾い読みしたりするだろう。

でも今のところ、今年の残りの時間が、

まるで盲人のもとから逃げ出した盲導犬がアスファルトの横断歩道を渡るように、

一定の速さで流れていく。

自由――これは、暴君の父称を忘れたときだ。

口中の唾はシーラーズ(*イランの都市)の菓子「ハルワ」みたいに甘ったるい。

そして、あなたの脳は雄羊の角さながらにねじれている。

なのに、青い目からは涙一滴したたらないのだ」

 

 海外では、ブロツキーは主にエッセイストとして有名になった。詩作については、彼はロシア語で書くことを好み、それから英語に翻訳していた。ブロツキーの詩においては、言語に直接、個別の役割が割り当てられている。つまり、作者のイデーを表現する機能ではなく、独立した現象としての言語が、独自の役割を演じる。

 これに関連して、後にソ連の詩人ベーラ・アフマドゥーリナは、こう述べている。

 「彼は、言ってみれば、自分の中でロシア語を生み出すことができ、しかもこれに完全に成功している。彼にとっては、自分の周りの会話、発話を聞く必要は必ずしもない…。彼はいわばそれを自分で再現するのだ。彼自身が豊饒な力となる。まるで彼自身が庭であり庭師であるかのように。…日常の発話から離れて、彼自身がロシア語の肥沃な土壌になるのだ」

 ブロツキーは、新しい詩的言語を創造し、ありとあらゆる形骸と桎梏から解き放った。この詩人の語彙とシンタクシスは何ものによっても制限されない。 

6. ブロツキーはどんな人だったか?

 詩人の親しい友人たちでさえ、彼が気難しかったことを認めている。詩人・エッセイストでブロツキーの友人だったレフ・ローセフは、インタビューで次のように回想している。

 「若い頃、彼は遠慮会釈なくズケズケとものを言うことがあった。まあ、生意気だった。もちろん、年とともに、もっと礼儀正しく、気を使うようにはなっていったが。また、彼は、度外れなスピードで生活していたから、周囲に迷惑をかけたり悲しませたりすることもあった。普通の人間のペースで暮らしている者には、不安定で無軌道に見えたからだ」

 その一方で、次の点は誰もが認めていた。つまり、ブロツキーはストイックな性格で、いつも威厳があり、「長い物に巻かれる」ことはなく、独自の判断を下していた。そして、その大才にもかかわらずとても謙虚だった。

 ブロツキーの人生の主だった出来事の 1 つは、若い画家マリーナ・バスマノワとの出会いだ。彼女のことを詩人は、生涯忘れられなかったようだ。二人のつらい関係は、1962年から1968年まで6年間続いた。別離は、息子が生まれて間もなく起きた。

 ブロツキーの詩の多くは、マリーナ・バスマノワに捧げられている。その名は隠され、イニシャルのみが、「M.Bに捧ぐ」と書かれているが。最後のこうした詩は 1989 年のものだ。

 ブロツキーは、1990年に最初で最後の結婚をしている。相手は、ロシア移民の子孫であるイタリア人貴族、マリア・ソッツァーニだ。その3年後に娘アンナが生まれている。

 友人たちは気難しさを指摘しているが、ブロツキーが無条件に愛した生き物がいた。それは猫だ。彼の猫好きは、子供の頃から始まった。彼は、自伝的なエッセイ『一部屋半』のなかで、彼と父親がお互いを「小さな猫」と「大きな猫」​​と呼んでいたことを思い出している。ブロツキーの記述によると、彼と両親は時々ニャーと鳴いたり喉を鳴らしたりしたという。 

7. ブロツキーの最期は?

 青年時代から既に、詩人は心臓に問題を抱えていた(彼が最初の心臓発作を起こしたのは、まだとても若い頃で、逮捕後の独房においてだった)。おそらく、ブロツキーの健康状態は、封鎖下のレニングラードで過ごした幼児期、戦時中と戦後の飢えと寒さに加え、彼の激しい気性、逮捕、流刑、事実上の国外追放も影響していよう。

 しかも、彼はヘビースモーカーで、濃いコーヒーを乱用していた。数回の心臓手術を受け、計 3 回、心臓発作を起こしている。1996 年 1 月 27 日、詩人は自宅の書斎で、心臓発作のため亡くなった。彼は最愛の街、ヴェネツィアに葬られている。

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