虫たちの愛と戦い:帝政ロシア初のアニメはどのように撮影されたのか?(動画)

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ロシア・ビヨンド
 この映画を観るために、数年にわたり、人々は群れをなして映画館に詰めかけ、その内容に衝撃を受けた。では、この虫たちの愛の物語が、いかにして帝政ロシア時代に主要なアニメのブロックバスターになったのか、紹介しよう。

 つい最近まで、ロシアのアニメに「誕生日」というものはなかった。歴史上の公式な日にちが設定されたのは最近で、そのとき、「ロシアアニメの日」が作られた。そして現在、毎年4月8日にその日が祝われている。1912年の4月8日、ロシア初のアニメ映画「麗しのリュカニダ」が公開されたことにちなんでいる。主人公はクワガタ、出演しているのは本物の虫という、長さ10分のこのアニメは、100年以上前に大きな話題を呼んだ。これは世界初の人形アニメであったが、作品はまさに人々を昏迷状態に陥らせた。

本物のブロックバスター

 クワガタの王、ツェルヴスは自分の城で豪華な舞踏会を開いている。主賓はカミキリムシ族のゲロス伯爵である。王の隣の玉座に座っている美しいリュカニダを見て、伯爵はすっかり恋に落ちる。リュカニダと庭で2人きりになった伯爵は自分の思いを打ち明ける決心をするが、そこにツェルヴスが現れ、けんかとなり、王が敗北を喫する。リュカニダは絶望して、崖から飛び降りるが、死は免れる。リュカニダはゲロス伯爵の城に行き、平和に暮らし始めるが、そんな生活も長くは続かなかった。ツェルヴスは報復を企て、ゲロスに戦争を仕掛ける。そしてゲロスは壮大な決心をし、自分自身とリュカニダとツェルヴスの軍全体を爆破する・・・。

 この単純なストーリーを、当時の観客たちは、人気のジャンルであった「上流階級の愛の悲劇」のパロディと捉えた。そしてこの虫たちの愛の物語はブロックバスターになったのである。

 映画史研究家のニコライ・イズヴォロフは、「これはまさに爆弾のようなセンセーションを巻き起こしました。ロシアの人々は、このリュカニダを群れをなして観に行きました」と話す。当時のジャーナリストらは大真面目に、スタレヴィッチは虫の調教において輝かしい成功を収めたと書いた。 

 このアニメは外国でもセンセーションを巻き起こした。1912年の「映画人ニュース」にはこのような記述がある。「 もっとも信用できる情報筋によれば、すでに外国でこの映画が百本以上が作られており、本当に価値のある作品であることを物語っている・・・」。

死せる虫たち

 実は出演したすべての「俳優」たちは、すでに死んだものであった。監督のウラジスラフ・スタレヴィッチは、子どものときから虫が大好きで、乾燥した状態で収集していたのである。スタレヴィッチは最初の作品を1910年に制作した。元々、その映画は虫の生涯を描いたドキュメンタリー作品になるはずであったが、虫は光に弱かった。そこで、すでに死んでしまっている虫たちを、ワンシーンずつ撮影することにした。タイトルは「 Lucanus Cervus (クワガタ)」であった(今は残っていない)。

 同様の技術を用いて、同じ「俳優」を起用して作られた2本目の作品が、「麗しのリュカニダ」である。この作品の制作について、監督は次のように書いている。 

 「もちろん、まず虫を撮影できるよう整える必要がありました。足の間に細い針金を通して、蝋で体につけるのはそう難しいことではありませんでした。それから粘土で『戦場』を作り、そこに虫たちの足を固定しました。虫を動かすのも困難ではありませんでした。クワガタの戦いのシーンでは、主なポーズをデッサンしました。撮影ではそれぞれの動きを角度を変えて撮りました。ライトはそれぞれの場面で変えて当てました」。

 映画は無声で、字幕もなく、スクリーン上で何が起きているかを観客に伝えるため、詳細なナレーションがつけられた。ナレーターが声を出して、上映ごとに、映画館の中で解説文を朗読するという方法であった。映画は1920年代なかばまで上映された。

 革命後、「麗しのリュカニダ」は「玉座の娼婦」と改名された。ボリシェヴィキたちは、不実な女王の振る舞いを明らかに非難したのである。