映画監督アンドレイ・タルコフスキー:巨匠について知っておくべき10の事実

カルチャー
ニコライ・コルナツキー
 アンドレイ・タルコフスキー(1932~1986年)は、ロシアの映画監督としては、セルゲイ・エイゼンシュテイン以降、最も影響力のある人物だ。彼の映画は、世界の映画史上最高の名作に、定期的にリストアップされている。クリストファー・ノーランやギレルモ・デル・トロからクシシュトフ・キェスロフスキやラース・フォン・トリアーにいたるまで、多くの映画人が彼への敬愛の念を表している。

1. ソ連映画のニューウェーブの代表格

 独裁者ヨシフ・スターリンの死後、ソ連でいわゆる「雪解け」が始まった。社会および政治の領域である程度の自由化があり、創造的な自己表現の可能性が映画に戻ってきた。

 そして、ソビエト・ニューウェーブと呼ばれる一群の映画監督が現れる。彼らはみな、世界初の映画学校である全ロシア映画大学(VGIK)の卒業生であり、世界の映画の潮流の一部をなしていると感じていた。

 タルコフスキーは、このニューウェーブのなかでも最も有名で、桁外れの人物であり、独自の映像スタイルを生み出した。彼の絶えざる宗教的・道徳的探求は、ソ連映画では稀だった。彼は、パリ近郊のサント=ジュヌヴィエーヴ=デ=ボワ墓地に埋葬されているが、その墓石には「天使を見た人」と刻まれている。

 

2. 優れた詩人の息子 

 父アルセニー・タルコフスキーは、カフカス、中央アジアなどの詩の翻訳者としてずっと知られていたが、55歳のときに初めて自分の詩集を出すことができた。今では彼は、戦後の最も優れた詩人の一人とみなされている。

 しかし、アルセニーと息子アンドレイとの関係は複雑だった。アンドレイがまだ子供の頃、父は家庭を捨てた。これに関する幼時の思い出は、アンドレイの代表作の一つ『鏡』(1974)の元となっている。

 にもかかわらず、アンドレイは、父の詩才を高く評価し、3つの映画で引用している。そのうちの1つ、『こうして夏は過ぎゆく』は、名画『ストーカー』で、タイトルロールを演じたアレクサンドル・カイダノフスキーが口ずさんでいる。また、ペレストロイカ期に作曲されて、ヒットした。

3. ソ連の映画監督として初めてヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞

 彼は30歳で早くも世界的に有名になった。1962年のヴェネツィア国際映画祭で、『僕の村は戦場だった』(原題は『イワンの子供時代』)により金獅子賞を獲得し、センセーションを呼んだときだ。これは、パルチザンの偵察役になった少年のドラマ。最初は、別の監督が撮影したのだが、成功しなかった。

 タルコフスキーは、脚本を他のライターとともに書き改め、すべて撮り直した。皮肉なことに、金獅子賞は、彼が生涯で得た最高の賞だった。ソ連当局が、彼の映画の、国際映画祭への参加を許さなかったからだ。

 

4. ソ連体制の抑圧の下で独自性を発揮

 タルコフスキー監督の創造的な生涯はすべて、検閲との戦いに費やされた。彼の脚本は発表されず、撮影されたプロジェクトも、修正を被り、お蔵入りとなった。ソ連での20年以上のキャリアの中で、タルコフスキーは6本の長編映画しか製作していない。その結果、彼は外国に亡命したが、故郷の外では『サクリファイス』(1986)1本しか撮ることができなかった。彼は肺癌のために、54歳の若さで、パリで亡くなった。

 にもかかわらず、奇妙なことに、彼は、他の多くの人よりは当局から大目に見られていた。官僚たちでさえ彼の才能を完全に無視することはできなかった。『僕の村は戦場だった』の成功の後、ついこの間まで新人だった彼が、『アンドレイ・ルブリョフ』の撮影を許された(1966)。

 これは、ロシアの偉大なイコン画家についての、製作費のかさむ大作で、しかも、興行的な成功はあまり見込めなかった。

 また、『ストーカー』の撮影は、技術的な故障と創造上の困難のせいで、2回中断されたが、タルコフスキーは、3回目の試みのために、前例のない追加予算を与えられている(映画は1979年に公開)。

 

5. 超自然的な前兆を信じる

 若い頃、タルコフスキーは不良仲間と付き合ったことがあり、心配した母親は彼を、シベリア地質調査隊に入隊させ、1年間の現地調査に行かせた。ある時、小屋で冬ごもりをしていたときのこと、タルコフスキーには不思議な声が聞こえたという。その声は二度、「外に出ろ」と彼に命じた。彼がそれに従うと、松の大木が彼の小屋に倒れ、粉砕した。

 以来、彼は前兆を信じ、超常現象に興味を持ち、超能力者と付き合うようになる。催眠術と超自然現象は、彼の映画に再三登場している。

 

6. 『惑星ソラリス』の原作者はこの映画に不満だった

 タルコフスキーの『惑星ソラリス』(1972)は、世界のSF映画の古典的名作だ。理性をもつ惑星の海は、ポーランドの作家スタニスワフ・レムの発案だが、レムは、タルコフスキーが論点をずらしたとして、映画に批判的だった。

  「タルコフスキーは、『ソラリス』ではなく、ドストエフスキーの『罪と罰』を撮った」。こうレムは言った。とはいえ、この映画が原作の普及に貢献したことはまちがいない。

 ジェームズ・キャメロンは、長い間自分流の『ソラリス』をつくりたいと考えてきたが、スティーブン・ソダーバーグは、実際に2度目の映画化を実現している。

 『ストーカー』では、タルコフスキーは原作から、つまりストルガツキー兄弟の小説(原題は『路傍のピクニック』)から、さらに乖離している。しかし兄弟は、気を悪くせず、膨大な数のシナリオ案を自ら書いている。

 2016年にアメリカで、原作に近い連ドラを製作しようとしたが、パイロット版の製作だけで打ち切られた。しかし昨年に日本で、このロシアの小説にインスパイアされた12話のアニメ『裏世界ピクニック』が公開されている。

 

7. 気難しい性格で、トリアーの映画もこき下ろす

 彼はいつも自分に厳しく、そして周りの人々――とくに自分のスタッフ――に、多くを要求した。彼の日記は、ソ連と世界の映画監督の仕事への低評価、こき下ろしで埋まっている。スタンリー・キューブリックやウディ・アレンのような名匠さえ例外ではない。

 そういう言葉を、実際に面と向かって口に出すこともあった。たとえば、ラース・フォン・トリアーが、自分が大いに尊敬するタルコフスキーに、自作「エレメント・オブ・クライム」を見せたとき、タルコフスキーはそれを遠慮会釈なしに「こんなの糞だ!」と吐き捨てた。

 

8. ベルイマンを尊敬し、そのスタットとともに映画製作

 イングマール・ベルイマンは、タルコフスキーの偶像だった。そして、お互いに賞賛と尊敬の気持ちを抱いていた。スウェーデンの名匠は、このロシアの監督を最高の巨匠と呼んでいた。

 タルコフスキーは、最後の傑作『サクリファイス』の製作に当たり、主演俳優エルランド・ヨセフソンから事務担当まで、ベルイマンのスタッフをそっくり採用した。

 タルコフスキーは実は、フォーレ島で撮影したかった。ここは、ベルイマンが住み、映画も撮った場所だ。しかし、軍事基地に近いために許可が出ず、やむなく近くのゴットランド島で撮った。

 最も驚くべきことは、ベルイマンとタルコフスキーが直接会ったことがないということだ。二人は、同時に同じ場所にいたこともある。ストックホルムのシネマハウスだが、すれ違いになってしまった。

 

9. ロシアの優れた映画監督はすべてタルコフスキーの衣鉢を継ぐ

 タルコフスキーのスタイルは紛れもない――夢幻的に引き伸ばされたショットだ。『オックスフォード英語辞典』には、「tarkovskian」(タルコフスキー的なもの)という言葉さえ収録されている。

 確かに、世界の多くの監督が、彼の映画言語を継承、発展させようとしている。ロシアももちろんそうで、『ストーカー』の撮影現場だけでも、2人の監督が生まれている。彼らの精神とスタイルはタルコフスキーに近い。 それは、ストーカーを演じたアレクサンドル・カイダノフスキーと、コンスタンチン・ロプシャンスキーだ(撮影でアシスタントを務めた)。

 しかし、いわゆる「タルコフスキーの後継者」という形容は、実際に「後継者」であるか否かに関係ない肯定的評価であり、ロシアで個性的な映画を生み出したすべての新星に対して用いられる。アレクサンドル・ソクーロフとアンドレイ・ズヴャギンツェフもそう呼ばれた。ちなみに、2人とも、ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞している。

 

10. アニメとコンピュータゲームにも影響

 『ストーカー』に基づいて、サバイバルホラーの分野で、同名のシリーズが製作されている。日本のゲームデザイナー、小島秀夫は、タルコフスキーの影響について繰り返し語っている。彼は、『メタルギア』と『DEATH STRANDING』(デス・ストランディング)をデザインした。

  さらに、アニメ『攻殻機動隊』の監督などで知られる押井守も、タルコフスキーのファンだ(彼の長編映画『アヴァロン』は、とくに「tarkovskian」だった)。

 アニメ『MOONLIGHT MILE』(ムーンライトマイル)と『BLUE DRAGON 天界の七竜』には、タルコフスキーという名前のキャラクターが登場する。