大詩人アレクサンドル・プーシキン:必読の十作品はこれだ

カルチャー
アレクサンドラ・グゼワ
 アレクサンドル・プーシキンは、まさにロシア的天才だ。この詩人の作品を読んで、なぜロシア人が彼をこんなにリスペクトしているのか分かれば、ロシア人のメンタリティーの奥底も見えてくるだろう。

 プーシキン(1799~1837年)は、19世紀初頭に37年の短い生涯を生きた。彼はプレイボーイで、自由を愛し、美女に目がなく、当代最高の知性だった。

 彼は、近代ロシアの文章語を創り上げた。以後、そのロシア語によって、すべての偉大なロシア文学が書かれることになる。さらにプーシキンは、その言葉によって自ら、真に天才的な一連の作品を生み出した。どの国でもこれは通常、数世代を要するプロセスだが、この詩人は一人でやってのけた。

 しかし、外国人がプーシキンの天才と業績の大きさを正しく評価するのは難しいだろう。それは一つには、彼の詩の翻訳が事実上不可能だからだ(色あせた、あるいは卑俗なコピーか、はたまた砂を噛むような「学術的」な著作になりがちだ)。

 また、プーシキンの叡智の大きさと、彼を揺り動かした問題が完全に理解でき、また身近に感じられるのは、ロシア人だけだろうからだ。しかし、トライしてみようではないか。 

1. 詩

 ロシアを代表する詩人プーシキンは、約360篇の詩を書いた。彼は既に子供の頃に詩作を始めている(彼より年長の同時代人たちによれば、彼が11歳の少年だった頃に早くも真の内面的転換が起きたという)。

 ロシア語で書かれた最高の恋愛詩の一つ、「私は妙なる瞬間を覚えている」(1825年)は、実に210か国語に訳されている。

 「預言者」(1826年)は、詩の使命を、『聖書』の観点から深く掘り下げたものだ。

 プーシキンが好きなロシアの季節は秋で、常に彼に霊感と創作力の奔流をもたらした。この季節を彼は「秋」(1833年)で描いている。

 「思い出」(1828年)では、それまでの生涯になしたことについて、深夜に悔恨の念に苛まれている。非常に深い詩だ。

 「詩人」(1827年)「詩人が召還され、アポロ神への聖なる生贄にとなるまでには…」でプーシキンは、読者を自分の創造の「実験室」に誘い、一人の人間の中に凡人と天才が混在しているさまを示している。

 詩 「ピンデモンテより」(1836年)「わたしは権力に重きをおかない…」でプーシキンは、今なおアクチュアルな自由と幸福の秘密を我々に示している。

 「わたしは自分に人わざでない記念碑を建てた」(1836年)では、自身の創作の意義づけと総括を行った。

2. 『ルスランとリュドミラ』(1817~1820年)

 ロシアの子供たちは皆、このおとぎ話風の叙事詩の冒頭を暗記している。

 「ルコモリエに、緑なす樫の樹が立ち、樹には金の鎖が巻かれている。金鎖の上を『学者猫』が昼も夜もぐるぐる歩き回っている…」

 「ルコモリエ」は、世界の果てにある聖なる場所であり、「世界樹」、つまり世界の支柱が立っている。その根は冥界にのび、その枝は天国に届き、神々は、この樹に登ったり下りたりする。

 民間伝承に触発されたプーシキンは、彼の最初の大叙事詩を書いた。読者は、魔法の世界に誘われる。

 その世界では、陰険な魔法使いチェルノモールが麗しのリュドミラをかどわかし、勇士ルスランが彼女を救うべく旅に出る。早くも1841年に、ミハイル・グリンカは、プーシキンのこの詩に基づいて、有名なオペラ『ルスランとリュドミラ』を作曲した。 

3. 『エフゲニー・オネーギン』(1823~1832年)

 この韻文小説は、プーシキンの作品の頂点であり、「ロシアの生活の百科事典」ともみなされている。首都サンクトペテルブルク出身の若い貴族オネーギンが農村にやって来て退屈し、気晴らししたいと思いつつ、何の気なしに悲劇とメロドラマに首を突っ込む。隣家の地主貴族の娘タチアナは、彼に愛を告白する(タチアナの恋文は、ロシア文学最高の愛の告白だろう)。ところが、オネーギンは気まぐれで、彼女の妹オリガに言い寄る。オリガには婚約者レンスキーがおり、彼はオネーギンの友人だった。レンスキーはオネーギンに決闘を申し込む…。

 プーシキンが独特の形式、いわゆる「オネーギン・スタンザ」を編み出しているため、この作品の翻訳は困難を極める。「オネーギン・スタンザ」は、明確な構造と韻のパターンをもち、作品全体で展開されている。

 しかし、そのオペラは世界中で人気を博することとなる――1877~78年にピョートル・チャイコフスキーは、この韻文小説をオペラ化した。 

4. 『ボリス・ゴドゥノフ』(1825年)

 この悲劇の核心には、ロシア史のなかでも最も謎めいた一頁がある。すなわち、リューリク朝最後の後継者だったドミトリー皇子の殺害だ(事故死という説もある)。ボリス・ゴドゥノフが、自分が帝位に就くために暗殺を命じたという噂が流れた…。

 この劇は、プーシキンが生きた時代との類似点をはっきりと示している。彼がこの作品を書いたのは、自由奔放な詩ゆえに流刑に処せられていたときだ。

 また当時、「デカブリストの乱」がロシアで起きていた。プーシキンにとって、それはまったく他人事ではなく、友人の多くがこれに参加していた。深い思索をともなうこの詩劇は、現代ロシアおいても極めてアクチュアルだ。

 この悲劇『ボリス・ゴドゥノフ』に基づいて、1869年には、作曲家モデスト・ムソルグスキーが有名なオペラを書いた。さらに、この作品は、さまざまな劇場で何度も上演され、映画化もされてきた。 

5. 『小悲劇』(1830年)

 演劇上の実験を続けていた彼は、ニジェゴロド県ボルジノ村に出向いた際に、そこでコレラ流行のため足止めを食った。その間に彼は、4篇の短い、韻文による戯曲を書いている。「吝嗇の騎士」、「モーツァルトとサリエリ」、「石の客」、「ペスト流行時の宴」である。

 詩人は、人間の情熱を探求し、いずれの戯曲においても、登場人物に厳しい道徳上の選択を迫る。どの戯曲も、いっしょに、あるいは別々に繰り返し上演され、映画化された。

6. 『ベールキン物語』 (故イワン・ペトローヴィチ・ベールキンの物語)(1831)

 『ベールキン物語』は、エキサイティングな5篇からなる連作短編集だ。たとえば、貴族の令嬢をめぐる恋愛物がある。彼女は、ハンサムな隣人に会うために、農民の娘になりすました――二人の父親が対立しているからだ。

 ロマンティックな決闘の話もある。一方が他方に、自分の射撃は保留にし、しばらく後に再会しよう、と提案する。

 さらに、「偶然に」結婚してしまった将校についての信じ難い物語もある…。

7. 『青銅の騎士』(1833年)

 この詩的な物語は、サンクトペテルブルクの真の賛歌だ。「我は汝を愛す、ピョートルの創造物よ」は、この作品の最も有名なフレーズの一つ。ピョートル1世(大帝)の騎馬像は、この街のシンボルだが、作品名「青銅の騎士」はその通称となった。

 しかしストーリーは、悲しい事件をめぐって展開していく。プーシキンは、1824年に市内で起きた大洪水を描いており、それが物語の背景をなす。

8. 『スペードの女王』(1834年)

 この物語は、人がどれほどトランプ賭博に夢中になり得るかを如実に見せる。秘密の必勝の勝ち札を聞き出すために、若い工兵士官ゲルマンは、年老いた伯爵夫人の寝室に入り込む。彼女は、恐怖のあまり死ぬが、その幽霊がゲルマンに現れて、勝ち札「3、7、1」を教える…。

 この作品は、ヨーロッパで大成功を収め、ピョートル・チャイコフスキーはこれに基づいて同名のオペラを書いた。

9. 『大尉の娘』(1836年)

 18世紀にロシアのほぼ全土を席巻したエメリヤン・プガチョフ率いるコサック・農民の大反乱を背景としている。しかし、これは何よりも、これは名誉、貴族の義務、そして愛についての物語だ。これらの観念をロシア人は今でもまさにこのように理解している。

 この小説は、後に格言となったフレーズだけ考えても、読む価値がある。すなわち、「神よ、我ロシアの反乱を見ずに済むように――それは無意味で無慈悲だ」

 プーシキンは、反乱を率いたアタマン、エメリヤン・プガチェフの人物像に非常な関心を抱いており、この小説のほか、歴史研究『プガチョフ反乱史』も書いている。

10. おとぎ話

 プーシキンの驚嘆すべき韻文のおとぎ話。これを素通りするロシアの子供は皆無だ。彼は、その軽やかで絵画的なスタイルで、愛する乳母アリーナ・ロディオーノヴナから聞いた民話や『グリム童話』などから見事な再話を創り出した。最も重要で素晴らしいのは、人間の欲望の限りなさを示す『漁師と魚の物語』をはじめ、『サルタン王の物語』、『死せる王女と七人の勇士の物語』などだろう。

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