ドストエフスキー時代のサンクトペテルブルク(写真特集)

ロシア・ビヨンド, MAMM/MDF/Russia in photo, Public Domain
 ドストエフスキーの小説で描かれる街はあまり気持ちのよいものとは言えないものが多い。汚く、陰鬱で、貧しい人々が溢れている。しかし、実際にドストエフスキーが生きていたときのペテルブルクはどのような姿をしていたのだろうか。

 フョードル・ドストエフスキーはモスクワに生まれ育ったが、ほぼ30年ほどサンクトペテルブルクで暮らした。自身の家を持たなかったドストエフスキーは、賃貸住宅を何度か変えている。

 父親はドストエフスキーを主要な工兵学校で学ばせようと決めていた。学校はパヴェル1世の屋敷の建物であるミハイロフスキー城の中にあった(写真)。当時、ドストエフスキーの同級生だったドミトリー・グリゴローヴィチは、ドストエフスキーは友好的でなく、仲間との遊びには加わらず、「座って、本に夢中で、一人になれる場所を探していた」と回想する。

 学校のすぐそばに夏の庭園とフォンタンカ川に架かるパンテレイモノスキー橋がある。20世紀初頭には、自動車が往来できるよう、この橋の代わりに新しいものが建設された。

 1849年、ドストエフスキーは逮捕され、8ヶ月間、ペトロパヴロフスク要塞で過ごした。最初は銃殺刑を言い渡されたドストエフスキーだが、最後の瞬間にシベリア流刑となった。ドストエフスキーは革命組織に参加し、禁止されていた1847年に書かれたゴーゴリ宛てのベリンスキーの書簡を広めた罪で逮捕された。書簡の中には、市民の自由が必要であり、農奴制を廃止するべきだと書かれていた。

 またプーシキンの試作「青銅の騎士」から、ペテルブルクの創建者であるピョートル1世の銅像をめぐる論争が始まった。「青銅の騎士」の主人公は、かつて沼があり、天候がひどく、洪水に悩まされていたこの地にとしを創建したことに対し、ピョートルを責めた。ドストエフスキーは、小説「未成年」の中で、同じような考えを述べている。「この霧が飛び散り、上にのぼっていくとき、この腐ったぬるぬるとした街がこの霧と一緒に上り、煙のように消えて、かつてのフィンランド沼が残り、その真ん中に、おそらく美しさのために、暑さに喘ぐ終われた馬の上に青銅の騎士がいたらどうだろう」。

 ドストエフスキーは作品の中では、どちらかといえば陰鬱で、あまり美しくないペテルブルクを描いているが、ドストエフスキー自身は、銀行家や商人が働き、着飾った女性たちが散策した街の「ショーウィンドー」であるネフスキー大通りをよく歩いた。ドストエフスキーが外国に住み、賃貸アパートを借りていなかったときには、ペテルブルクを訪れた際にはネフスキー通りのホテルに宿泊した。

 ネフスキー大通りにあるカザン聖堂には、祈りのために足を運んだ(ドストエフスキーの妻によれば、露土戦争の開戦が宣言された後、ドストエフスキーはここに駆け込んだ)。

 カザン聖堂から歩いて1分のところに有名なヴォルファ・イ・ベランジェというケーキ屋があり(ちなみに今もある)、ドストエフスキーはここを好んで訪れた。1846年、ドストエフスキーはここで国民を革命に備えさせることを目的とした秘密のサークルを立ち上げたミハイル・ペトラシェフスキーと知り合う。ペトラシェフスキー・サークルで、ドストエフスキーは禁じられていた書簡を読んだ。ともにシベリア流刑となったペトラシェフスキーは、小説「悪霊」に登場する暗い人物、ピョートル・ヴェルホヴェンスキーのモデルとなっている。

ネフスキー大通りとボリシャヤ・モルスカヤ通りの角にあるコトミンの家1

 「罪と罰」には、ペテルブルクの多くの場所が描かれている。ニコラエフスキー橋(現在のブラゴヴェシェンスキー橋)の上で、御者が叫んでいるにもかかわらず、考え込み、道の真ん中を歩いていたラスコーリニコフの背中を御者は縄で打ち、あやうく馬の下に落ちそうになる。憐れみ深い女性が彼を乞食だと思い、施しを与える。

 夏の庭園のそばをラスコーリニコフも歩き、街中がこのような緑に覆われ、あちこちに噴水があって、埃っぽい都会の空気がきれいになればいいのにと考えていた。「すると突然、興味が湧いた。なぜすべての大都市で、人は必要というわけでもないのに、誰もが庭園も噴水もなく、ただ泥と悪臭と汚いものばかりがある場所に移り住むのだろうかと」。

夏の庭園の門にあるアレクサンドル・ネフスキー公のための聖ブラゴヴェルヌィ礼拝所

 こちらは、ニコリスキー聖堂のそばにあるエカテリニンスキー運河。この近くにラスコーリニコフが殺害した金貸しの老婆が、そして運河の先にはラスコーリニコフが好きだったソーニャ・マルメラードワが住んでいた。現在、運河はグリボエードフ運河と名付けられている。そしてこの運河の名所である血の上の教会が作られたとき、ドストエフスキーはすでに他界していた。ちなみに、教会が建てられた場所でアレクサンドル2世が殺害されたのも、ドストエフスキーの死後である。もしこの事件を知ったなら、ドストエフスキーはショックを受けたであろう。ドストエフスキーは愛国主義者であり、君主制を支持し、皇帝の暗殺未遂に深く心を痛めていたからである。

 ラスコーリニコフ自身はセンナヤ広場の近くに住んでいた。手工業の地区である。「下の階の居酒屋の近く、センナヤ広場の住宅の汚くて臭い中庭に、もっとも酒飲みのところに、ありとあらゆる手工業者や職人たちが群れを成していた」。

センナヤ広場

 この、通りで魚を売る人はまるでドストエフスキーの小説の1ページから飛び出してきたようである。「また露店や酒飲みのにおいがする。また1分ごとに酔っ払い、配達人のチュフナ、ずり落ちかけている御者たちの姿がある」

 「罪と罰」やその他の小説には、ワシリエフスキー島が数多く登場する。ドストエフスキー自身、この島でいくつかのアパートに住んだ。御者に払うだけのお金を持っていなかった「虐げられた人々」の主人公は、いつも街の別の端にある島まで歩いて行く。ある時、「非常に遠いワシリエフスキー島」(当時、彼らはワシリエフスキー島に住んでいた)に行くまでに病気になりかけたこともあった。現在も同じ方向に行く人たちがタクシーに乗り合わせるように、ドストエフスキーの時代には、御者に支払うお金を折半しようと誘う人や自分の馬で送ってくれるという人もいた。「わたしがワシリエフスキー島までと言うのを聞いて、自分の馬車に乗せてくれると親切に言う人がいた」。

 ドストエフスキーにとって特別な場所だったのが、トロイツェ・イズマイロフスキー聖堂。1887年、ここでドストエフスキーは2人目の妻である25歳年下のアンナ・スニトキナと結婚式を挙げた。彼女はドストエフスキーの速記係を務め、彼女の助けの下、「白痴」、「悪霊」、「未成年」、「カラマーゾフの兄弟」が執筆された。

 クルト・ジゲリ機械工場の建物はペテルブルクのヤムスカヤ通りに1876年に建設された。現在、この通りはドストエフスキー通りと改称されている。通りの角には、ドストエフスキーが1878年から1881年に亡くなるまで暮らした最後のアパートの入った建物がある。現在、ここはドストエフスキーの家博物館となっている。

 ドストエフスキーは、現代の街のシンボルであるアレクサンドロフスキー跳ね橋(現在の名称はリテイヌィ橋)の建設と1879年の開通を目にすることができた。今は、モスクワはロシアではないと言われるが、ドストエフスキーは、ペテルブルクはロシアの他の部分とは違うと考えていた。プーシキンやゴーゴリの作品の主人公について、日記の中で、「あなたは否定できないでしょう。彼らはその土壌を知らず、ペテルブルクに勤務したときにロシアを知ったのだ」と書いている。

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