この絵は学校の歴史教科書用に描かれた。題材はルーシの建国だ。最も流布している説では、まとまりのないスラヴ諸民族は統一の支配者を選ぶことができず、敵の襲来から効果的に自衛するため、ヴャラーグを呼んで統治してもらうことにした。こうしてルーシに公リューリクと兄弟がやって来たのだ。
この絵はヴァスネツォフがキエフのウラジーミル聖堂で描いた記念碑的なフレスコ画のコピーだ。中央の人物は、ルーシをキリスト教国にし、正教会で聖人として崇められる公ウラジーミルだ。前面にはドニエプル川での最初のキエフ住人の洗礼が描かれている。
16世紀で最も重要な出来事の一つがコサックのイェルマークとその部隊によるシベリア征服だ。絵画には、コサックとシビル・ハン軍との戦いが描かれている。
最も有名な歴史画の一つには、イワン雷帝の皇太子の死が、最も広まっている説を基にして描かれている。どのようにして皇太子が死亡したかについて、歴史家の間では諸説あるが、レーピンの作品によって人々の意識の中では、ロシアのツァーリが息子との口論の際に誤って杖で彼を殴り殺してしまったというイメージが固まっている。皇太子の死をきっかけとしてリューリク朝の時代は終わり、ロシアは動乱期を迎えることになる。
この壮大な絵はモスクワの名門連隊に所属する1300人の銃兵の処刑を描いている。ピョートル1世は在位の最初期に1698年の銃兵隊暴動の首謀者を粛清し、自身の専制権力を示したのだった。
この作品にはペテルブルク建設と、沼地を堂々と歩くピョートルが描かれている。ピョートルの命でこの沼地の上に街が建てられた。従者は皇帝の自信に満ちた毅然たる足取りについていけていない。
ロシア史の「父と子」をテーマにしたもう一枚の印象的な絵だ。皇帝は息子が反逆とクーデターの準備に関与したと疑って非難した。結局皇太子は投獄され、拷問の末獄死した(ピョートル1世の同意があったとされる)。
エメリヤン・プガチョフはロシア史上最大の農民反乱(1773-75年)の主導者だ。コサックのプガチョフは暗殺されたピョートル3世を自称し、自分の軍を作った。作中ではプガチョフが自ら裁判を行っている。画家はいくつかのバージョンを描いた。プガチョフの容姿や、彼に対する評価――悪人か、勇猛なコサックの英雄か――を決めかねたためだ。
ナポレオン率いるフランスとの1812年の戦争は多くの絵画の題材となっている(もちろん絵画以外の芸術作品、例えばレフ・トルストイの『戦争と平和』の題材にもなった)。ナポレオンの謎めいた人物像は何世代にもわたってロシア人の興味を掻き立ててきた。この作品では、ボナパルトは明らかにボロディノ近郊の戦況に落胆している。
ロシア史上最も重要な出来事の一つが農奴制の廃止だ。農奴解放を宣言する詔書を農民が読んでいる――正しくは、字の読める一人が読むのを聞いている。
農奴制の廃止が1917年の革命につながったことについて、詳しくはこちら。
セローフは皇族や廷臣の肖像画を多く描いた。ロシア最後の皇帝ニコライ2世の治世は悲劇で終わり、彼は家族とともに殺害された。しかし治世の始まりも悲劇だった。戴冠式の後、モスクワで無料の「土産」を求める人々が群集事故を起こし、千人以上が死亡したのだ。
ペトログラードの労働者集会とそれに続く1917年の革命は、ロシア史において極めて重要な事件だ。ブロツキーはウラジーミル・レーニンの生涯を題材に多くの絵を描いた。この作品でソ連の画家はレーニンと民衆の団結を強調している。
セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の映画『十月』が上映され、ソビエト・プロパガンダ絵画が普及したため、人々の間では1917年の十月革命が、銃撃戦が繰り広げられ、臨時政府が拠点としていた冬宮が急襲された集団武装蜂起だったというイメージが出来上がった。しかし、冬宮はいたって平和裏に「占拠」されたのだった。とはいえ臨時政府は実際に廃され、その後ロシア・ソビエト共和国が建国された。こうして全く別の時代が始まった。
ソ連では第二次世界大戦を題材に多くの絵が描かれた。壮大な戦争画の他、画家は市民の英雄的行為も描いた。ゲラシモフはこの作品で、苦難の表情を浮かべながらも誇り高く顔を上げるすべての母親のイメージを、この一人の女性に込めている。
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