モスクワ絵画学校時代に描かれたこの習作と彫刻は、ペテルブルクでロシア芸術を収集するロシア美術館が購入した。成功を収めたシーシキンはペテルブルクに移り住み、絵画アカデミーで絵の勉強を続けた。
学生時代、シーシキンは、岩がちな森が広がるカレリア地方をたくさん旅しながら、自然を描いた。1860年にこの作品は、アカデミーの金メダルを受賞し、欧州旅行の奨学金を手にした。
シーシキンは蒐集家ニコライ・ブィコフに依頼され、ドイツでこの作品を描いた。またこの作品でシーシキンはペテルブルクの絵画アカデミー会員の称号を与えられた。しかしまもなく、故郷の景色が恋しくなったシーシキンはロシアに帰国した。
スケッチの一つにシーシキンは、「大きさ、広がり、牧草地。ライ麦畑。神の恵み。ロシアの豊かさ」と書いた。実際、風景画というのは、ロシア人にとってもっとも近しい、もっとも親しみのあるもので、手を加えにくいものである。シーシキンは故郷エラブガ(現在のタタールスタン)の自然を見つめた。この作品は移動派画家の展覧会に出品され、そこでパヴェル・トレチャコフがすぐにこの作品を購入した。
シーシキンは移動派画家、リアリズム画家、民族的テーマを描く画家たちと親交が深く、移動派画家の展覧会にたびたび参加した。シーシキンの肖像画をいくつか描いた親しい友人のイワン・クラムスコイは、風景画家としてのシーシキンは「今でもなお、どの画家に比べても、果てしなく優れている」と語っていた。
デュッセルドルフの絵画学校でシーシキンが自然の世界、自然の飾らない側面に特別な愛を傾けるようになった。そこで、絵画作品の一部を思わせる習作も、ディーテールに注意を向けた独立した作品となっている。
シーシキンは元来、勤勉であったが、悲しい出来事によって、ますます仕事に没頭するようになっていった。まずシーシキンの子供たちの母親である最初の妻が亡くなったのであるが、2度目の結婚をした後も、同じ痛みを味わうこととなった。
1880年代の作品では、シーシキンの技術がさらに向上したことが見て取れる。すでに画家として広く認められていたシーシキンであったが、自然を学ぶことをやめることはなかった。「芸術活動、自然の探求に終わりはない。完全にすべてを知り尽くした、もう学ぶことは何もないと言うことはできないのである」とシーシキンは書いている。
これがシーシキンのもっとも有名な作品であることは間違いない。この作品は同時代人たちに熱く受け入れられ、有名な蒐集家のパヴェル・トレチャコフがモスクワにある自身のギャラリーのため、これを購入した。ソ連ではこの絵がキャンディ「ミーシカ・コソラープィ(ぶきっちょなクマさん)」の包み紙に使われ、今でもロシアの子供たちは皆、この絵をよく知っている。
シーシキンは弾けるような緑色を好み、冬の絵はあまり描かなかった。たとえば、この陰鬱に感じられるほとんどモノクロの作品も、青空が重要なディーテールの一つとなっている。
この作品は、文字通りロシア文学のロマンティシズムを絵画として表現したものである。この作品は、詩人ミハイル・レールモントフの詩に捧げられたもので、イラストとして用いられた。「北方の野生にひとりぼっちで/ はげ山のてっぺんに松が立っている・・・」
1892年、すでに名誉教授となっていたシーシキンは、絵画アカデミー付属の風景画工房の所長に任命された。
しかし、その6年後、シーシキンはイーゼルを前に息を引き取った。これは晩年の作品の1枚あるが、ここでシーシキンは木々の梢を切り取ってしまうお気に入りの手法を用いている。こうすることにより、森をより広大に感じさせることができると同時に、観る者を木々により近い気持ちにさせてくれる。
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